鎌倉 幕府 滅亡。 鎌倉幕府は、なぜ滅亡したのか?~「引き金」となった後醍醐天皇の常識外れ(PHP Online 衆知(歴史街道))

鎌倉幕府が滅亡した理由は?

鎌倉 幕府 滅亡

Contents• 幕府滅亡の原因その1~元寇~ 元寇とは、中国の王朝である元という国が2度にわたって日本を攻めたことをいいます。 「蒙古襲来(もうこしゅうらい)」ともいわれれいます。 これによって、鎌倉幕府が弱体化していくことになるんだけど そもそも日本に2度も攻めてきた元とは、どんな国なのでしょうか。 元とはどんな国? 元は中国の王朝なんだけど、実は漢民族 中国人 ではないんだ。 「蒙古」=モンゴルのことで、 モンゴルの遊牧民族が中国を攻め滅ぼして元という国を興したんだ。 中国は長年、モンゴル人の襲来におびえていました。 あの有名な万里の長城も遊牧民が攻めてこないように作られたものなんだ。 しかし、ついに チンギス=ハンという人がモンゴルを統一し、そのまま勢いに乗って中国も征服したんだ。 その勢いはとどまることを知らず、中央アジア・イラン・東ヨーロッパなど次々に征服し、巨大な領土を持つモンゴル帝国を築いたんだ。 そして、5代目皇帝 フビライ=ハンの時に最も栄え、領土もユーラシア大陸の大部分までに拡大し、国名を中国風に 「元」と改め初代皇帝になったんだ。 なんで日本を攻めたの? この広大な領土を誇る元が次に目をつけたのが、島国日本だ。 マルコ=ポーロという人が書いた「東方見聞録」という書物の中で当時の日本は 「金がたくさん取れる黄金の国だ」と紹介されていたんだ。 フビライは日本のその豊かな富を手に入れ、元という国の強さをもっともっと他の国にアピールしたかったんだ。 中国の前の王朝である南宋が当時まだわずかな勢力になりながらも、モンゴルに対抗していたんだ。 フビライは早くこれにトドメをさしたかったんだけど、これがまたなかなかしぶとくて…。 そんなとき、元の属国となった朝鮮の王朝である高麗から「先に日本を攻略すれば南宋も楽に落とせるかも…。 」ってアドバイスされたんだ。 そんな理由もあってフビライは日本に侵略することを決めたんだ。 元寇はどんな戦いだったの? 元は進行する前に日本へ国書をたびたび送ってきた。 「元は今とっても強い国だよ。 隣の高麗も服属したよ。 日本も元に服属しないと兵で攻め込むぞ」 もう脅迫だよね。 時の執権北条時宗はこの非常識な 国書を無視し続けた。 すると業を煮やした元は1274年、3万の兵を率いて博多に上陸しついに戦争となった。 この1回目の元の襲来を 文永の役といいます。 九州の御家人の軍は大苦戦。 日本の戦いでは、先に「我こそは~」と自分の名を名乗ってからという決まりがあった。 でも、元はそんなのないから 御家人たちが名乗りを上げている間に もちろん攻撃してくるよね。 さらに、日本では一対一で戦うというのが基本スタイルでした。 これに対して、 元は集団で襲い掛かる。 また、元はてつはうと呼ばれる武器を用いていたんだけど、御家人はそんなの見るの初めて。 その爆音で人も馬もビビりまくり。 引用: これは当時の戦いの様子を描いたものなんだけど、戦いの壮絶さが伝わってきますね。 日本の国内でしか戦経験が無い御家人のと、支配をユーラシア大陸の大部分まで占める元とはその差は歴然。 御家人たちの健闘むなしく、博多は火の海となり、一般人は殺されたり捕虜になったりむごい有様だったよう。 このまま元に支配されてしまうのか。 そう思いながら夜を過ごした御家人たちは翌朝、信じられない光景を見た。 あんなにたくさんいた元の船が一隻も見当たらない。 一説によると 暴風雨が吹いて多くの元軍が沈んだとある。 これを日本は 「神風」と呼んだんだ。 さて、自然の力を借りながらもなんとか元軍から日本を守った御家人たち。 命がけの御恩をしたんだからそれ相応の奉公があるはず。 でも御家人に与えられたのは狭い土地ばかり。 それどころか 恩賞がなかった御家人さえいた。 でも幕府だって困っていた。 与える土地がないんだ!! 今までは倒した相手から土地を奪い、恩賞として与えていたんだけど… 今回の戦いでは、敵を追い払っただけだから奪いとった土地がないんだ。 でも御家人は納得できない。 あんなにがんばったのに…。 幕府に不満を募らせながら、次の元襲来に備えて準備を進めます。 そしてついに1281年、もう一度元襲来! この2回目の襲来を 弘安の役という。 しかも次は14万の大軍!対する御家人は鎌倉から来たのも合わせて6万5千人。 なんとか九州で食い止めようと奮闘する御家人。 前回の反省を活かし、こちらもゲリラ戦で対抗する御家人たち。 でも力の差は歴然、今回こそやられてしまうのか…。 するとそこへまた来た 神風! なんと元は台風に直撃され壊滅状態となり、戦意喪失した軍は日本から撤退していった。 こうして 元寇は 日本側の勝利に終わったのです。 スポンサーリンク 幕府滅亡の原因その2~御家人の貧困と永仁の徳政令~ 2度の元の襲来を乗り越えた幕府だけど、今回もやっぱり土地がない。 領地がもらえない御家人たちの生活は苦しくなるばかり…。 元の襲来でかかった費用 食費や武器代 は全部自分持ちだからね。 そして御家人たちの生活が貧しくなったのはもう1つ理由がある。 それは 武士の分割相続だ。 分割相続とは、自分が所有する土地を子供たちに分割して相続させるというもの。 でもそんなことを代々進めていくとどうなると思う? 1人あたりの相続する土地がだんだんと少なくなってくるよね。 まだ幕府が作られて間もないころは、国内に敵がたくさんいた。 そして、その敵の土地を御恩として幕府から新しく与えられたことでまかなっていくんだけど、幕府の支配が全国に及ぶとそれも難しくなっていった。 そんな時に元寇というトドメだ。 元寇はモンゴル兵を追い払っただけで、幕府が手に入れた新しい土地なんてなかったからね。 では、御家人たちはどうしたのか。 自分の土地を担保としたり売り払ったりしてお金を借り、生活の足しにしていたんだ。 このころは貨幣 お金 が全国に流通しており、経済の中心は物々交換から貨幣をつかって売買するという方法に代わっていたんだ。 これも御家人の生活を苦しめた原因の1つだ。 もちろん、幕府も御家人の生活を救おうと必死で考えた。 御家人たちの不満が幕府にむかっていたのも気づいていたからね。 このままでは幕府の存続も怪しくなってしまう…。 そこで出したのが 永仁の徳政令だ。 徳政令っていうは簡単に言うと 借金を帳消しにするっていう法令だよ。 御家人たちは生活のために土地を売り払ったり、土地を担保にお金を借りたりしていたんだ。 この徳政令は御家人が売った土地を無条件で取り返せる、新たに土地を売ることは禁止、金融業者の訴えは一切聞き入れないというもの。 御家人には優しく、金融業者には厳しいこの法令。 うまく御家人を救済することが出来たのか。 結果は大失敗。 土地が戻ってきたはきたけど、元々マイナスだったのが0になっただけだし、今までのように土地を担保にお金が借りれなくなった。 しかも金融業者だって自分たちが損するだけなのにお金なんて貸したくないよね。 結局、経済は大混乱。 御家人、ますます困窮。 幕府もしまったと思ったんだろうね。 翌年、土地を無条件で取り返せるという項目だけを残して、他の項目は廃止したんだ。 永仁の徳政令は大失敗に終わった幕府。 御家人の不満はたまる一方で、だんだんと滅亡へと向かっていくのでした。 ついに鎌倉幕府滅亡へ~御家人たちの反乱と後醍醐天皇~ こうして幕府と御家人たちの関係が悪化していくと各地で 悪党と呼ばれる人々が目立ってきた。 悪党は幕府に従わず地元の農民たちを率いて荘園領主の年貢を奪ったり土地を奪ったりしていたんだ。 幕府の初期にも悪党たちはいたんだけど、幕府はそんなに問題視しておらず放置していた。 でも永仁の徳政令の失敗のあと、御家人の中からも悪党になる人が出てきて幕府も無視できなくなってきた。 幕府の力が弱まっていた証拠だね。 こうして幕府が悪党たちの対応に追われ、バタバタと混乱していたとき…。 その混乱に乗じて幕府を滅ぼそうと計画した男がいた。 その名も 後醍醐天皇。 長年、幕府によって煮え湯を飲まされてきた朝廷。 その権力を再び我が手に戻さんと立ち上がったんだ。 しかし、この討幕計画はあっさり幕府側の朝廷監視機関である六波羅探題にバレてしまう。 でも、また懲りずに2回目の討幕計画をたてる後醍醐天皇。 挙兵するもまたもや失敗し、今度は隠岐に配流となってしまった。 万事休すと思っていたところに1人奮闘していた人物がいた。 名は 楠木正成。 この人はなんと悪党だったが、後醍醐天皇の挙兵に合わせて挙兵し、後醍醐天皇が隠岐に流された後も、知略を持って幕府軍を翻弄し、幕府軍の力を弱めることに成功した。 この幕府軍の度重なる敗戦があっという間に全国に広まり、後醍醐天皇も隠岐から脱出することに成功。 3回目の討幕を掲げたんだ。 その3回目の挙兵に応えたのが、 足利尊氏。 足利氏は元々は源氏の一族で、御家人の中では名家の1つだ。 尊氏は初めは幕府の命令通り、討幕軍と戦ってたんだけど、心は幕府から離れていた。 そして3回目に後醍醐天皇が討幕の命令を出した時に早々に幕府を見限って討幕軍に寝返ったんだ。 そして討幕軍をまとめ上げ、六波羅探題を攻め滅ぼしたんだよ。 この働きで醍醐天皇は足利尊氏のことをいたく気に入り、自分の諱 尊治親王 から「尊」の字を授け「尊氏」と名乗らせたんだよ。 最初は「足利高氏」だったんだ。 そして、これと時を同じくして鎌倉では、これまた元は源氏の一族で有力御家人だった 新田義貞が挙兵した。 足利氏と新田氏は元をたどると同じ源氏の一族で初代同士が兄弟だったんだ。 挙兵した新田義貞は一気に鎌倉に攻め込み、 幕府本体を滅ぼすことに成功した。 鎌倉幕府は、有力御家人であり元々は源氏の一族だった者の手によって滅ぼされたんだ。 なかなか皮肉だよね。 ここに武士政権の基礎を築いた鎌倉幕府は滅亡したのでした。 鎌倉幕府の滅亡まとめ! 重要語句を下にまとめたよ。 社会の勉強が苦手だ! とにかく覚えられない。 参考書を読んでいても頭に入ってこないんだよ! こんな悩みを抱えている方も多いのではないでしょうか。 それは理解しているんだけど… 山の名前、国の名前、偉人の名前… 参考書を眺めていても、想像力が働かなくて ただの文字としてしか頭に入ってきません。 これでは、ただの暗記であって 知識にはなっていないのです。 にもかかわらず、ほとんどの社会の参考書は 大事なポイントが文字でまとめてあるばかり。 社会が苦手な人にとっては、マジ苦痛ですよねw と、まぁ 参考書を眺めてばかりで 一向に理解が深まらなかった私は 社会の学習を半ば諦めていました。 しかし ちょっと学習する方向性を変えてみました。 すると! 楽しいくらいに理解が深まるようになってきました。 参考書では学ぶことができなかった 深い部分までの理解、そして知識のつながりが 頭の中にすっと入ってくるようになったのです。 理解が深まってくると、学ぶ意欲も高まり どんどんと積極的に社会を学ぶようになりました。 こうなってくると、参考書に書いてあった 今まではただの文字としてしか認識できなかった情報も サクサクと理解できるようになってきました。 こちらのスタディサプリという学習コンテンツを利用して 社会の授業を聴くことにしました。 > プロの社会講師が授業をしているので 話が面白い!! 雑学的な感じで、いろんな知識を話してくれるので どんどんと興味がわいてきて 知識欲が深まってきます。

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鎌倉幕府の滅亡

鎌倉 幕府 滅亡

「鎌倉幕府」滅亡の原因は「元寇」と「北条高時」による「失政」 鎌倉幕府が滅亡した原因は『元寇』と「失政」と言えます。 「元寇」・・・「文永・弘安の役」。 すなわち「蒙古襲来」を撃退した鎌倉幕府でしたが、「防衛戦」であったため敵の領土を奪うことができませんでした。 そのため、戦った武士たち【御家人】にご褒美として「土地」を与えることができなかったのです。 そのため、武士たちは相当な被害をこうむり、疲弊をしてしまうことになりました。 そんな中、鎌倉幕府はトップである「北条高時」の失政によって、「御家人」を苦しめ続けます。 「」で敗北するなど、鎌倉幕府に深い憎しみを抱いていた「」と「後醍醐天皇」は、「倒幕運動」を開始。 《新田義貞》 「引用元より」 「新田義貞」・・・足利尊氏と同じく、「源義国」の血を引く「武士のトップ」となることができる名門の血筋。 鎌倉幕府は、2つの拠点をもっていました。 「京都・六波羅」と「鎌倉」です。 「足利尊氏」と「新田義貞」は協力して、この「京都・六波羅」と「鎌倉」を同時に攻撃。 「足利尊氏」は「京都・六波羅」を。 「新田義貞」は「鎌倉」を攻略したのです。 京都・六波羅を足利尊氏に攻め滅ぼされた鎌倉幕府は、すでに滅亡寸前の状態でした。 そんな中で、新田義貞が大軍団をひきいて「鎌倉」を攻撃。 鎌倉幕府を支配していた「北条一門」は、トップである「北条高時」や「赤橋守時(足利尊氏の義兄)」が次々と死亡。 日本最初の「武家政権」である「鎌倉幕府」は、141年の歴史を閉じたのでした。 鎌倉幕府が滅亡した後の混乱!「建武の新政」と「南北朝時代」 失政の連続だった「鎌倉幕府」が滅亡し、後醍醐天皇による新しい政治「建武の新政」が始まりました。 鎌倉幕府を滅ぼした武士たちは、後醍醐天皇の政治で「良い国になる」「平和になる」と信じていました。 しかし、世の中は全く良くなりませんでした。 それどころか、鎌倉幕府の時代よりも、遥かに悪化していったのです。 その原因は、後醍醐天皇の政治「建武の新政」が、「鎌倉幕府」の政治よりも、遥かにマズイものだったこと。 武士が嫌いだった後醍醐天皇は、全国にある武士たちの土地を、何の理由もなく取り上げはじめたのです。 挙句の果てに後醍醐天皇は、完全な「独裁政治」を開始。 この独裁政治により、鎌倉幕府を滅ぼした武士たちは、次々と大切な「領地」「土地」を失うこととなるのです。 《足利尊氏》 「引用元より」 「新田義貞」や「楠木正成」など、鎌倉幕府討伐に功績があった武士たちは、「後醍醐天皇」に味方して、「足利尊氏」らに対抗。 しかし、武士たちの圧倒的な支持を得ていたカリスマ「足利尊氏」には、名将「楠木正成」も「新田義貞」も、まったく歯が立たず。 楠木正成も新田義貞も、次々と戦死。 後醍醐天皇を京都から追い出した足利尊氏は、「 武士たちの、武士たちによる、武士たちのための政治」をおこなうため、「京都」に「」を開きます。 尊氏に敗北した後醍醐天皇は、奈良県「吉野」に「南朝」という、京都の「朝廷」とは異なるもう一つの「朝廷」を開いて、足利尊氏に戦いを挑むのです。 ここに、50年以上も続く動乱の世。 2人の天皇が存在する異常な時代「」が始まったのでした。 この「南北朝時代」は、三代将軍「足利義満」が「南朝と北朝を統一」するまで続くこととなるのです。 《楠木正成》 「引用元より」 この楠木正成が「新田義貞」を、かなり酷評しているのです。 足利尊氏が、京都へ向けて進軍してくる際、楠木正成は「後醍醐天皇」に対して「勝ち目がない」ことを伝えます。 戦っても勝てないのなら、足利尊氏に対して「新田義貞」の首を渡して「仲直り」したほうが良い・・・と、楠木正成は進言しているのです。 「新田義貞を殺害せよ」 そんなことを言っている事実からしても、楠木正成が新田義貞を、酷評していたことがよくわかります。 新田義貞・・・・「戦下手」「ビギナーズラックで鎌倉幕府を滅亡させた武将」などなど。 現代、新田義貞への評価は、こういった「酷評」が多いのが現実なのです。 ただ、「後醍醐天皇」への忠誠心だけは素晴らしかった「新田義貞」。 「」の後、その功績は「楠木正成」とともに再評価されています。

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鎌倉幕府の滅亡

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源平盛衰記 駿河国富士川合戦 歌川国芳画 都立中央図書館特別文庫室蔵 鎌倉時代はいつからか? 鎌倉時代とは平安京から鎌倉へ政治の中心が移り、鎌倉幕府が滅亡するまでの時代を指す。 1184年に幕府の原型が整う 元暦元年 1184 には、政務・財務事務を司る『公文所 のちの政所 』が設けられ、大江広元が長官となる。 続いて、土地争いなどの訴訟事務を行う『問注所』が作られ、三善康信が長官となった。 翌文治元年 1185 には、荘園を管理し警察権を発動する、いわゆる守護・地頭の設置が行われている。 現在では一般的に、この幕府の全国統治が可能となった 1185年が鎌倉時代の始まりとされている。 鎌倉時代はいつからか? 鎌倉時代の出来事 頼朝の妻、北条政子 武士として初めて征夷大将軍に就任した であるが、彼は 1199年に落馬によって亡くなった。 頼朝は晩年、朝廷との協調を目指す為、自分の 娘を後鳥羽天皇に嫁がせようとしたのだが、これに反対した御家人の存在が指摘され、しばしば頼朝は暗殺されたのではないかとする説もある。 頼朝の死後、幕府では後継者を巡る権力闘争が始まってしまう。 この時、 主導権を握っていたのは頼朝の妻であった や、その父である 北条時政であった。 頼朝なき幕府にはカリスマ性を持つリーダーがいなかった為、重臣たちによる13人の合議制によって政治が行われる事になった。 頼朝には子の頼家と実朝が居たがまだ若く、また頼家の乳母と妻が比企氏であった為、北条側が 比企氏に政権が奪われる事を 危惧したとも思われる。 同時期、頼朝に忠実な御家人であった梶原景時 かじわらかげとき も幕府を追放されている。 北条政子 鎌倉幕府は、執権の北条氏が実権を握る 頼家は二代目将軍に就寝したが、政子と時政は比企氏を排除する為、頼家の後継者問題にも関与した。 結果、 比企氏と頼家は北条氏によって滅ぼされてしまい、頼家の弟である実朝が三代目将軍に就任し、北条時政が執権となり幕府の実権を握ったのである。 時政はその後、実朝をも退けようと考えるが、これは政子らに反対されてしまった為、これを期に時政は政界を去る事となった。 時政の後を継いで 執権となったのは、時政の次男であり政子の弟の 義時 よしとき であった。 義時は執権就任後、侍所別当の和田義盛 よしもり を滅ぼしており、これにより幕府の実権は北条家が一挙に握る事となったのである。 権力が、将軍から執権へ 北条征伐に動いた後鳥羽上皇 後白河法皇の死後、 再び院政を始めた後鳥羽上皇は、様々な強権を発揮し専制体制を行い始める。 鎌倉幕府の成立後、幕府と朝廷の対立が徐々に深まっていく事となり、ついに後鳥羽上皇は 倒幕活動、つまり北条氏の征伐に動き出す事となった。 後鳥羽が北条氏を滅ぼす切っ掛けとなったのは、源実朝の暗殺事件であったといわれる。 実朝は公家文化に理解を示していた将軍であったのだが、義家の子の公暁 くぎょう に殺害されてしまったのだ。 実朝には子がいなかった為、北条氏は後鳥羽上皇の子を将軍職に就任させる密約を結んでいたのだ。 しかし、後鳥羽上皇はこれを反故にして、 北条氏討伐の院宣を出してしまうのである。 後鳥羽上皇 政子の演説が、御家人たちの心動かした 幕府の御家人たちは、北条征伐の院宣が出された事に大変動揺したとされ、朝廷側に付く御家人が大勢出ることが危惧された。 当時の日本社会において、日本全土を統治する 朝廷と天皇は絶対的な権威を持っており、その朝廷と対立する事は、 武士たちにとっては 大変な恐怖であったのだ。 そこで、北条政子は御家人たちを集め、演説を行った。 自分たち 御家人の地位を築いたのは初代幕府の将軍であった 頼朝である事を改めて思い出させ、理不尽な要求を突き付けてくる朝廷と戦う事を諭したのだ。 後鳥羽上皇は逆臣たちの讒言に惑わされている為、その逆臣たちを討つために、と御家人たちに都へ攻め上がる事を決意させる事が出来たのでった。 承久の乱で敗北した朝廷は、権威が衰える そして1221年5月、鎌倉幕府軍と朝廷の戦いである「 承久の乱 じょうきゅうのらん 」が勃発した。 北条義時の子である やすとき や、義時の弟である 時房 ときふさ らが京を攻め、僅か一ヶ月ほどで 幕府軍の圧勝で乱は終結するのである。 義時は後鳥羽上皇に近い天皇を退け、後堀川天皇を即位させた。 朝廷軍を率いた後鳥羽上皇やは日本各地へ 配流される事となり、乱に関わった貴族たちは処刑される事となった。 これは日本史上で稀に見る出来事である。 さらに上皇らの領地は没収される事となり、幕府の御家人たちに功績として与えられのだ。 この時、 朝廷が奪われた領地は3000ヵ所ほどであり、膨大な領地が幕府の物となった為、 朝廷の権威は大きく失墜する事となってしまった。 義時が亡くなると、この 泰時が三代目執権として就任する事となる。 泰時は北条氏の権力基盤を固める為、様々な政治戦略を行っていく。 連署 れんしょ と評定衆 ひょうじょうしゅう などの新たな役職を定め、北条氏と有力御家人たちが一眼となって意見を出し合える 集団指導体制を築いたのだ。 また、幕府の全国支配が進むにつれて、各地の土地などを巡る問題が発生していくようになった為、 御成敗式目を定めた。 御成敗式目とは、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された法典である。 この後、引付衆 ひきつけしゅう と呼ばれる所領を巡る争いを専門とした役職も設置される事となる。 御成敗式目 第十六条 皇族が将軍となる親王将軍 鎌倉幕府を開いたのは頼朝であるが、 三代目の実朝が殺害された事で頼朝直系の血筋が途絶えてしまった。 しかし鎌倉幕府の将軍は、三代目で途絶えた訳ではなく、 四代目以降も存在していたのだ。 四代将軍に就任したのは藤原頼経 よりつね で、摂家から迎えられた将軍となった摂家将軍である。 五代目将軍も同じく摂家より迎えられた藤原頼嗣 よりつぐ だ。 しかし、四代・五代目ともに執権略奪を画策する勢力と結ぶ付いた事により、結局は将軍職を廃されてしまう。 この時、 北条氏が求めていた将軍とは、頼朝のように自身が政治を司るタイプの将軍ではなく、現代における天皇陛下のように、国家統一の指針となる 象徴としての将軍であった。 朝廷と幕府、両方から受け入れらえる将軍でなければ駄目だという事だ。 そこで、六代目の将軍に就任したのが後嵯峨天皇 ごさがてんのう の子である宗尊親王 むなたかしんのう であった。 皇族での初めて宗尊親王が征夷大将軍となった事で、将軍職の安定に成功し、これ以降は 親王将軍が定着する事となったのだ。 戦が終わると武士は貧しくなる 承久の乱以降、 平和な世が続いていくが、鎌倉時代中期に入ると、その平和が 武士たちの生活を追い詰める事となっていく。 当時の武士社会では、惣領 そうりょう と呼ばれる家長が、子弟に土地を与える分割相続が行われていた。 しかし、この所領とは元々、戦で戦功をあげた功績として獲得していく物である。 よって、戦のない平和な世では、 世代を重ねる毎に、徐々に領 地が減っていく事とになるのである。 そのため、領地をあまり持たない貧しい御家人たちが増えていくという、負の連鎖が発生していくのだ。 元寇の襲来 武士の生活が苦しくなる中、幕府にとって危機的な状況が発生する。 二度に及ぶである。 大陸に絶大な勢力を誇る モンゴル帝国が成立し、皇帝であるクビライが日本へ国書を持たせた使節を送ってくるのだ。 これは日本へモンゴル帝国の属国となる事を迫るものであった。 当時の執権であった は、この国書に返答を送らず、モンゴル帝国の 属国となる事を拒否したのだ。 これにより、激怒したクビライが軍隊を派遣した、一度目の戦いが 文永の役 1274年 である。 この戦いは日本にとって初めての外国からの侵略戦争であり、幕府は一切の外交政策や情報集などを行っていなかった。 日本軍は多大な苦戦を強いられる事になったが、辛うじて元軍を撤退させることに成功した。 二度目の襲来の 弘安の役 1281年 では、事前に日本側が大きな石塁を築く事で戦いを優位に進める事が出来た。 さらに「 神風」といわれる暴風雨によって、 元軍は壊滅するのであった。 元寇の影響 後醍醐天皇の倒幕 鎌倉幕府の治世が及ばなくなってきた頃、朝廷では後嵯峨上皇が後継者を決めぬままに亡くなってしまい、二つの系統が皇位を争う事となってしまう。 地方では 農民たちの抵抗運動も活発になってきており、 領主に逆らう「悪党」と呼ばれる者たちが多く出現する。 国内の秩序が乱れており、新たな大乱を予感させる事態となって来ていた。 幕府が朝廷に両統交互に即位する事を進言した翌年、 が即位する事になる。 後醍醐天皇は政治に対し、積極的に取り掛かっており、 倒幕運動にも乗り出すのである。 しかし、後醍醐の倒幕計画は幕府に漏れてしまう。 この後醍醐の動きを危険視した鎌倉幕府は、後醍醐を隠岐へ配流とした上、その近臣たちは斬首という重い刑に処したのであった。

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