あさのたくみ。 浅野長矩

赤穂浪士とは?歴史が苦手でも大丈夫!3分以内でわかりやすく解説

あさのたくみ

2016年12月8日配信 毎週木曜日の配信です。 港区の写真や、楽しい情報を盛りだくさんでお届けしています。 購読料は無料です。 12月の歴史的な出来事といえば、忠臣蔵のもととなっている赤穂義士の討ち入りが挙げられます。 12月14日(水)には、泉岳寺で赤穂義士祭が行われます。 今週は、「コミュニティサイクル」を使い、忠臣蔵にまつわるスポットを回り、赤穂義士が討ち入り後に歩いたとされるルートを実際に辿ってみましょう! 「港区自転車シェアリング」は、港区に40か所以上あるサイクルポートのほか、千代田区、中央区、新宿区、江東区の5つの区のポートで、どこででも自転車のレンタルと返却ができる便利なシステムです。 詳しくは下記のホームページを確認してください。 日比谷通りに出たら左折し、新虎通りを越えた場所に「浅野内匠頭終焉之地」の碑があります。 師走の頃になるとテレビや映画などで演じられる忠臣蔵は、江戸時代中期の元禄14年(1701年)に起こった「元禄赤穂事件」がもとになっています。 この事件は、江戸城にあった「松の廊下」という場所で、今の兵庫県の西側にあった赤穂藩の藩主、浅野内匠頭が江戸幕府の家臣、吉良上野介(きらこうずけのすけ)を刃で切り付け、重症を負わせたことが発端でした。 【PH】 日比谷通りに面して建っている「浅野内匠頭終焉之地」の碑 江戸時代、この辺りには奥州一之関藩(岩手県)田村右京太夫(たむらうきょうだいぶ)の上屋敷がありました。 内匠頭は江戸城松の廊下での刃傷沙汰があったその日のうちに、この屋敷で切腹させられました。 無念の思いを、辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」に託しています。 【PH】 史跡には辞世の句が記されています 新虎通りを汐留方面に歩くと、左手に新橋プラザビルが見えてきます。 今回はこの新橋プラザビルにあるサイクルポートを使用しましょう。 【PH】 コミュニティサイクルの自転車を使って、赤穂義士が歩いた道を辿ります 自転車を借りたら、新虎通りを汐留方面へ向かい、東新橋一丁目交差点を右折し、さらに第一京浜に沿って進みます。 第一京浜沿いに当たるこのルートは、吉良邸に討ち入った赤穂義士が亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首級(しるし(討ち取った首))を供えるために、浅野内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かったルートといわれています。 赤穂義士が歩いた道を辿りながら、次のスポット「水野監物邸跡」まで向かいましょう。 5km程向かうと、田町駅西口交差点に辿り着きます。 交差点を左折し、慶応仲通り商店街のアーチをくぐって、突き当りを右に入るとすぐ「水野監物邸跡(みずのけんもつていあと)」の説明板があります。 お越しの際は、自転車を押して歩くか、田町駅西口交差点を進んだ先にあるサイクルポートで一度自転車を返却してください。 大勢でお越しの際は通行の妨げにならないよう、上記のサイクルポートで一度自転車を返却することをおすすめします。 【PH】 慶応仲通り商店街の一角に佇んでいます 【PH】 水野監物邸跡についての説明板 水野監物邸跡は三河国岡崎藩主・水野氏の中屋敷跡です。 同屋敷には赤穂事件で吉良邸に討ち入った赤穂義士47人のうち9人が幕府の沙汰を待つためにお預けになり、結果として同邸で切腹し、その後泉岳寺に埋葬されました。 赤穂義士を預かった4大名のうち、水野家は細川家とともに義士の取扱いは丁重で世評もよく、「細川 越中守綱利(えっちゅうのかみつなとし) の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海 毛利甲斐守綱元(もうりかいのかみつなもと) の沖 松平隠岐守定直(まつだいらおきのかみさだなお) ぞ濁れる」という落首(時事や人物を風刺した匿名の狂歌や狂句)がその状況をよく伝えています。 目的地の泉岳寺までは第一京浜沿いを約1. 5km、ちょうど都営浅草線の三田から泉岳寺駅の真上に当たるこのルートは、吉良邸に討ち入った赤穂義士が亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首級を供えるために、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かったルートと言われています。 このルートを800m程進むと、途中右手に御田八幡神社が見えてきます。 【PH】 三田から泉岳寺の中間あたりに位置する御田八幡神社 ここ御田八幡神社にも、赤穂義士を預かった細川家の「堀内伝右衛門筆記(ほりうちでんえもんひっき)」に、エピソードが記されています。 義士の中の一人であった高田郡兵衛(たかたぐんべえ)は、義士の中でも仇討ちを急進していた立場でありながら、討ち入りから脱盟してしまいます。 討ち入り当日、成就後の赤穂義士引き上げに出会い、お祝いを述べたのですが義士の一行にこれを無視されてしまいます。 高田郡兵衛が義士たちの引き上げに出会う前に、討ち入り成功を祈願していた神社が、この御田八幡神社だったそうです。 仇討ちを急進していながら自ら脱盟した郡兵衛には、やむなく脱盟しなければならなかった理由があったそうです。 諸説ありますが、気になる人はぜひ調べてみてくださいね。 次は、高輪泉岳寺前商店会に立ち寄り、泉岳寺に向かいましょう。 この交差点を右折するとその周りには高輪泉岳寺前商店会が広がっています。 【PH】 第一京浜から泉岳寺、そして門前の左右の通りに広がる高輪泉岳寺前商店会 【PH】 泉岳寺参道のおみやげの店も商店会の会員 「高輪泉岳寺前商店会」には、飲食・理美容・コンビニなど26軒が加盟し、泉岳寺や駅すぐ近くの稲荷神社など、歴史的な観光スポットにも恵まれています。 会長の石川進さんは、第一京浜沿いのパブ・レストラン「いしかわ」のご主人です。 JRの新駅計画が進む中での、お気持ちなどもお話してくださいました。 「昔、第一京浜から東側は、すぐ東京湾だったそうで、うちの隣りには海から水を引いていた『潮の湯』という銭湯がありました。 その後、元パン屋だった私の家と一緒にビルに建替え、潮の湯はなくなり、うちはパブ・レストランに変わりました。 品川駅と田町駅の間にJRの新駅がこの近くに開業するので、老朽化した泉岳寺駅は安全性などを考え、ホームの拡幅など改装計画が進行中で、第一京浜東側の一部分は、3年後までには移転し、8年後には元の場所に戻って来る予定になっています。 しかし皆さんの合意を得ることや、8年後に高層ビルが建ち並ぶ新生の泉岳寺で、皆さんと無事街開きを迎えられるかなど、今は不安が大きいですね。 」と、戸惑いと期待が入り交じったご様子でした。 「この辺りはオフィスも多いですが、住宅街でもあるので、イベントがあるとたくさんの方が参加してくれています。 11月に泉岳寺児童遊園で行った恒例の餅つき大会には、500人程集まりました。 これからの年末にはオリジナルカレンダーの配布や、夜間パトロールも実施します。 開発という大きな波がこれから来ますが、その流れに乗っていけるような街づくりをしていくつもりです!」と、地元への強い心意気が感じられるお話でした。 石川会長からのご紹介は、明治から続く老舗「能登理容室」です。 【能登理容室 ホームページ】 【PH】 石川会長 右 と、商店会相談役でありご主人の能登さん 【PH】 能登理容室の変遷が分かるアルバム、左上が明治30年 1898年 の創業当時 「初代の祖父が富山県の氷見から歩いて東京に出てきて、この地で理容室を始めました。 今年で118年目になります。 お客様の中には遠方から新幹線で来店される方や、顔を剃りに名古屋からいらっしゃる女性、著名な方もいらっしゃいます。 父の代から利用してくださる人もいて、皆さんと話が弾みます! 父は俳優にスカウトされたこともあるそうで、男前だったんですよ!」と、嬉しそうにアルバムの写真を見せてくれました。 「高輪は泉岳寺をはじめ、昔から名所旧跡に恵まれています。 これからも青年会・町会・商店会が協力し、古くからのお客様と住民の皆さんを大事に、街を見守っていきたいと思っています。 」と、地元への熱い思いが感じられる能登さんのお話でした。 写真や手紙など、明治時代からの資料を大切にしていらっしゃるので、能登さんに髪をカットしてもらいながら、昔の泉岳寺や高輪のお話を伺ってみてはいかがでしょうか。 路地を入って100m程で泉岳寺に到着です。 泉岳寺の山門の手前に広場がありますので、いったんそこで自転車を停めましょう。 吉良上野介を討った義士達はその後、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首級を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かいました。 泉岳寺に着いた一行は主君の墓前に報告を行い、一同焼香しました。 討ち取った吉良の首級を洗った井戸が今も残っており「首洗い井戸」と呼ばれています。 【PH】 義士墓入口の門へ続く道にある「首洗い井戸」 【PH】 この階段を上がると赤穂義士墓地があります 討ち入りを果たした赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの泉岳寺に埋葬されました。 主君の遺恨を晴らすべく、命をかけて吉良邸に討ち入った「義士」達が切腹に処せられたことは、人々に大きな衝撃を与えました。 討ち入りの約50年後から上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行がきっかけとなり、「赤穂事件」はより一層多くの人に知られていくこととなります。 現在も泉岳寺には多くの参拝客が訪れ、毎年4月初旬と12月14日には赤穂義士祭が催されています。 12月14日の赤穂義士祭で、忠臣蔵の時代を感じてみてはいかがですか。 中には義士の貴重な遺品などが収められており、忠臣蔵についてのビデオも上映しています。 泉岳寺を訪れた際には、ぜひお立ち寄りください。 【PH】 義士の貴重な遺品などが収められている、赤穂義士記念館は必見です! 泉岳寺の参拝が終わったら、自転車を返却しに行きましょう。 泉岳寺の中門を出て、上ってきた坂道に出たら左折し、坂道を上っていきます。 道なりに進むと伊皿子交差点に出るので左折します。 そのまま進み、2つ目の曲がり角を右折、300m程進んだところに高輪地区総合支所のサイクルポートがありますので自転車を返却しましょう。 1万円の購入で1,000円分のプレミアムが付く、港区内の商店街等で使えるお得な商品券です。 完売した時点で終了ですので、お早めの購入をおすすめします。 販売場所や購入方法など詳細については、港区商店街連合会のホームページを確認してください。 最新情報が続々とアップされていますので、ぜひ、ご覧ください! ご意見・情報をお寄せください! 読者のみなさんからの、オススメ情報や穴場情報、紹介して欲しいスポットなどを募集しています。 お寄せいただいた情報は「読者の声」としてご紹介いたしますので、どしどしお便りをお送りください。 お待ちしています。 原則として、港区産業振興課では解除手続きは代行いたしません。 Copyright c 2004 MINATO CITY. All rights reserved. 許可無く転載することを禁じます。

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安国寺は、内乱による死者の鎮魂・追善や国家安全を目的として将軍足利尊氏・直義の兄弟が、夢窓国師 むそうこくし の勧めによって、一国一寺、全国60余州に建立しようとした寺院です。 東渓山安国寺は固山一鞏 こさんいちきょう を開祖として、暦応2年 1339 に東条川を見下ろす新定の高台に建立されたと伝え、現在の本堂は、明治29年 1896 に再建されました。 本寺には有名な逸話が残されています。 かつては良好な関係にあった播磨守護赤松満祐 みつすけ と将軍足利義教 よしのり との関係が悪化し、嘉吉元年 1441 に嘉吉の乱が起こります。 赤松満祐一行は、足利義教を殺害し、その首を携えて播磨に下国し、当寺で盛大な法要を営みました。 そののち、足利家菩提寺である京都の等持院で葬儀が営まれています。 本堂の裏手に祀られ「義教の首塚」と呼ばれている宝篋印塔 市 は、総高約170センチメートルで完全な形で残されており、紀年銘はありませんが室町時代中頃の形態をよく留めています。 嘉吉の乱からそう年月を経ずして、供養を目的として建立されたものとされています。 上鴨川住吉神社には、本殿 重文 ・拝殿・舞殿 舞堂 ・長床・御供部屋・小宮などの建物群が境内 市史跡 に建立されています。 本殿は棟札から正和5年 1316 に創建、現在の本殿は明応2年 1493 に再建されました。 なお、昭和45年 1970 に解体修理が行われています。 境内では五穀豊穣・無病息災を祈願して、毎年10月第一土曜・日曜日に神事舞 国無形民俗 が奉納されます。 神事舞は、宮座組織によって鎌倉時代の形態を厳格に留め、継承されており、中世の面影を体感できる貴重な舞踊として、全国的に知られています。 神主の祝詞で宵宮が始まり、宮巡り、斎灯、神主・禰宜・清座による割拝殿での神楽の後、リョンサン舞・獅子舞・田楽七番・イリ舞が演じられ、願済で行事を終えます。 本宮も神主の祝詞、盃ごとの後に、リョンサン舞・獅子舞・田楽・イリ舞・高足、そして翁舞・父尉・ミコの舞が演舞された後、祇園座による子供相撲が奉納されます。 赤穂義士で有名な赤穂藩浅野家は、元禄14年 1701 江戸城松の廊下の刃傷事件で断絶しますが、家原浅野家は、寛文11年 1671 に浅野長賢 ながかた に分知され、家原に陣屋を置く3500石の旗本として幕末を迎えます。 大悲山観音寺は、十一面観音菩薩立像を本尊とし、貞享3年 1686 に開基され、元禄12年 1699 には本堂が建立されました。 弘化4年 1847 浅野長祚 ながよし の時、浅野内匠頭 あさのたくみのかみ の石碑を中心に大石良雄ら四十七士の石碑がこれを取り巻く形で祀られた菩提所 市史跡 が、現在の加東市域のみならず、小野市、加西市、丹波市域の人々の寄進によって建立されました。 その後、「義士会」が結成され、現在も12月14日に続けられている義士祭は、当時を偲んで多くの参拝者でにぎわっており、北播磨一円の義士顕彰の拠り所となっています。 清水寺は、播磨の北東部、標高約542mの御嶽山にある天台宗の寺院です。 平安時代後期に書かれた『今昔物語集』には「播磨国の東北に霊験あらたかな霊峰がある・・・」としてすでに紹介されています。 また、西国三十三所観音霊場のうち西国二十五番札所として、現在も巡礼の人々が後を絶ちません。 清水寺へは「五谷五道」と呼ばれる参詣道があるほか、市内一円に参詣を助ける道標が点在しており、いかに多くの人々が巡礼に訪れていたかを示しています。 巡礼に訪れた甲州の肥谷井角右衛門が地域の人々の温情に触れた旨を記した道標(市 は、西坂の山裾にあります。 なお、西坂の北には京街道 丹波道 が延び、上鴨川には市内では貴重となった猪垣などが昔の姿を留めています。 清水寺には、武田五一の設計による大講堂をはじめとした伽藍 国登録 が再建されています。 また、平安時代の大刀 重文 、白鳳仏である銅造菩薩立像・中世の地域史を雄弁に語る清水寺文書 県 、木造十一面観音菩薩立像・木造吉祥天立像・木造毘沙門天立像・『瑞柳院旧記』 市 があるほか、5月にはクリンソウ 市天然 の華麗な花が見頃をむかえます。 中国山地への起点となる山塊に法道仙人の開創と伝えられています五峰山光明寺の伽藍は広がっています。 観応2年 1351 、足利尊氏 たかうじ とその弟直義 ただよし が対立した光明寺合戦は『太平記』に記載されていますし、文明17年 1485 赤松政則 まさのり と山名政豊 まさとよ の戦いでは光明寺の3院21坊が宿坊として割り当てられており、幾多の争いの場でもありました。 多聞院・遍照院・大慈院・花蔵院という塔頭が並び、山門を入ると、文殊堂・鎮守社、常行堂、さらに階段を上ると大正14年 1925 に再建された入母屋造り銅板葺きの本堂 国登録 が目の前に迫ってきます。 そのほか、平安時代後期の銅造如来坐像 重文 、一幅善導大師画像 市 などの文化財が残されています。 また、本堂の傍には釈迦如来立像と地蔵菩薩立像の二尊が祀られ、花祭り 仏生会 には多くの人々が参拝されています。 紅葉の名所としても知られるほか、シイの原生林が広がり、日々の散策・ハイキング・森林浴の場として生活に密着した良好なエリアでもあります。 佐保神社は、鎌倉峰 加西市 に降臨した大明神が由羅野 ゆらの にうつり、宮が建てられたことに始まるとされ、旧加東郡随一の大社で、承元4年 1210 にはすでに播磨有数の神社として知られていたといいます。 この神社にちなむ「佐保社郷」という荘園名から「やしろ」の名が起こり、鳥居地区の石鳥居にかつての社域をとどめています。 随身像が見守る楼門造りの山門をぬけると広い境内が開け、正面に本殿・拝殿、手水舎・舞台・行者堂などがあります。 当社の文化財には、元禄12年 1699 の高札 市 や、永禄12年 1569 銘の随身像、天文4年 1535 銘の楽太鼓などがあります。 なお、毎年10月の体育の日の前日に屋台・獅子舞などが奉納される秋祭りは、北播磨有数の規模で、多くの人々が参詣され、にぎわいをみせています。 朝光寺は、白雉2年 651 法道仙人開創の寺とされ、文治5年 1189 境内北側の権現山から現在の地に移ったと伝えられています。 事実、山上には平安時代末期には寺院が建立されており、近世に至っても修験の場がありました。 本堂 国宝 は、室町時代初期を代表する典型的な和様・唐様の折衷様の建物で、応永20年 1413 に建立されたことが、宮殿羽目板の墨書銘に残されています。 昭和の修理を経たとはいえ、かつての面影を現在に伝えています。 本尊は平安時代後期の木造千手観音立像 県 と鎌倉時代後期の木造千手観音立像 重文 があり、後者は京都蓮華王院 三十三間堂 から移されたものです。 境内には鐘楼 重文 、多宝塔 県 、仁王門 市 などの建造物のほか、応永34年 1427 銘の五輪塔 市 ・宝徳2年 1450 銘の六面石幢 市 などの石造遺品を見ることができます。 5月5日に披露される鬼追踊 県無形民俗 は、かつては「般若踊」として『和漢三才図絵』に紹介されるなど、古来より広く知られています。 そのほか、ツクバネ 市天然記念物 、朝光寺川の流れが瀑布を造るつくばねの滝など、文化財や名勝が密集したエリアであることも魅力の一つであるといえましょう。 屏風岩・五所ヶ渓谷・鷲の巣窟・蓬莱峡・鞍馬峡・妹背岩・不動岩・水天宮という東条湖八景という景観が湖上に誕生し、現在ではルアーフィッシングの良所として定着しています。 湖面ではボート遊び、近接してレジャー施設があり、近畿圏におけるレジャー拠点のひとつとなっています。 また、背景には「秋津富士」と呼ばれ、東条地域の人々に親しまれている標高320メートルの小高い山があります。 登山道が整備されて以来、手軽な散策の地として端鹿の里や六甲山系などの眺望を楽しむことができます。 なお、山頂には秋津3号墳 市史跡 という6世紀後半頃に築かれた横穴式石室の円墳がほぼ完全に残っています。 加古川は、加東市域のみならず流域に暮らすすべての人々を育み、暮らしを支えてきたといえます。 闘竜灘は、流紋岩質凝灰岩が加古川の河底一面に広がり、奇岩・瀑布が形造られた名勝として、古来より知られています。 文禄3年 1594 以来、阿江与助らによって、舟道が整備され、高瀬舟による加古川の舟運が始まりますが、闘竜灘ではどうしても荷物を積み降ろしをする必要があり、その周辺の河岸には舟問屋・宿屋などが建ち並んでいました。 また、闘竜灘の地形や鮎の習性を利用した「筧漁」(かけいりょう は、筧 木樋 によって流水を引き込み、人工の滝を作り、この滝を昇ろうとする鮎を仕掛けの穴へ落とし込む漁法で、江戸時代より継承されています。 現在、闘竜灘では5月1日、全国に先駆けて鮎漁が解禁され、太公望が期待を胸に竿を垂れるとともに、この「筧漁」も始まります。 寿永3年 1184 源義経が平家軍と戦った三草合戦のとき、義経はこの丹波道を通って京都から小野原 丹波篠山市今田町 に着陣し、山口 加東市 に陣を敷いた平家軍に夜討ちをかけて破ったと『平家物語』は伝えています。 馬瀬の国道沿いにある弁慶の力石、下三草薬師堂にある五輪塔群など、三草合戦にまつわる伝説も数多く残っています。 それらはこの合戦が地域の人々の心に深く刻まれた証であり、私たちが未来に伝えていくべき大切な宝であります。 現在は登山道が整備され、地域住民の健康・体力造りに一役買っています。

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世界に一つ!加東遺産の概要/加東市

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過去何回か話題になっています。 を見てみてください。 頭や守は古代の律令制における役所の長官の意味です。 読みはおなじ「かみ」ですが役所の種類によってどの文字を使うか決まっています。 内匠寮の他に図書寮とか縫殿寮などああります。 守は地方の出先のトップで今の県知事に相当します。 地方とは「因幡の国」とか「美濃の国」といったクニで、全国は60以上の国に分れていました。 ただし、江戸時代は律令制の役職はまったくの名誉職になっていて、越前守になっても越前の行政にタッチする必要もなければ、行ってみる必要もありません。 同じ名前の官職の人が他にもいたりします。 大名の従五位下といった位階は朝廷が授けるものですが、幕府が勘案して許可します。 肥後守など(官渡名乗りとか受領名乗りという)も幕府の許可のものに朝廷が授けるものですが、こちらはある程度大名の希望が入れられたようです。 もちろん存在しない官職は名乗れません。 当然ない国の守を名乗ることはできません。 「おれは奥多摩が好き」と思っても奥多摩という国はないので「奥多摩守」はないのです。 詳しくは先ほどのURLを参照してください。 普通『何々の守』は律令制の地方官となります。 現代で言えば、県知事に当たり、朝廷から任命されて地方へ赴任しました。 が 武家の時代になると律令制の官名は、有名無実となり、実力ある者が勝手に名乗る様になりました。 特に徳川幕府になってから、基礎法典の公家諸法度・武家諸法度によって、律令制の官位・官職は、武家に関しては別ものであると、はっきり法律で定めてしまいました。 すなわち、『若狭守』にしろ『美濃守』にしろ、朝廷のものとは別もので関係ないとしました。 勝手に名乗るのだから何でもよい。 上総の大名が『筑前守』でもよし、筑前の大名が『大和守』と名乗っても構わなかったのです。 大体、父親の官名を引き継ぎますが、新しく別の守を名乗ってもよかった訳です。 口頭で老中に上申しておくと、数日して『よろしうござる』と許可が出たそうで、その日から何々の守と名乗れる様になりました。 これを当時『守名乗り』と言いました。 ただし、これには資格があり、三千石以上の旗本でなければならない。 また、政策的に次の国名は儀礼上、避けなければなりませんでした。 すなわち、『武蔵守』は将軍家への遠慮から、『尾張守』『薩摩守』『三河守』は、それぞれの国主への遠慮から希望する事が、出来ませんでした。 古代の律令制では、役所で一番偉い人を長官(かみ)、二番目に偉い人を次官(すけ)と呼んでいました。 この「かみ」には様々な感じがあてられていて、頭・守・・・などがありました。 だいたい、中央の各役所に「頭」が使われ、地方の国司は「守」です。 ですから漢字は違いますが、その役所で一番偉い人、という意味では頭も守も一緒です。 次に住んでいないと地名を持っている藩主についてですが、治める土地は幕府や朝廷から与えられます。 (ここからは江戸時代くらいの話です) その時に範囲も決められるので、好き勝手に名前は付けられないでしょう。 そして、功績を収めたために地元から離れていても収入のいい土地をもらった藩主は、その遠い土地の守でもあります。 また、改易によって元の土地から離された場合、通称的に前の土地名で呼ぶこともあるかもしれません。 後半は専門に勉強していなのであいまいです。 すみません。 武家官位というものがあります。 これは大名家の家格などにより付けれる官位などがあり詳しく説明すると長くなりますので良く記載されるものを順に挙げます。 国持大名による領国名優先使用 加賀前田家の加賀守 福井松平家の越前守 仙台伊達家の陸奥守 薩摩島津家の薩摩守 紀州徳川家の常陸介 福岡黒田家の筑前守 佐賀鍋島家の肥前守など 大廊下、大広間詰め大名以外の老中と同一名乗り禁止 国持大名以外の領国名使用 肥前松浦氏の肥前守、壱岐守 信濃真田氏の信濃守、伊豆守 対馬宗氏の対馬守 上記(上記は一部)のような取り決めがあり、東北の藩主が武家官位を貰う際に丁度空いているのが九州の官位だったりする場合があります。 守は国司の長官のことですので石見や能登などの令制国名がつきます。 頭は朝廷の中央省庁に属する寮などの長官のこと。 (内匠頭は中務省の内匠寮の長官).

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