ピアニスト フジコ ヘミング。 フジコ・ヘミング 魂のピアニスト (新潮文庫)

フジコ・ヘミング(ピアニスト)の経歴や年収!若い頃は下手だった噂を調査!

ピアニスト フジコ ヘミング

Contents• フジコ・ヘミングさんの経歴は? フジコ・ヘミングさんは『恋多き女性』と言われることが多いようです。 男性遍歴に関する情報を書く前に、まずは フジコ・ヘミングさんの基本情報から。 フジコ・ヘミングさん (本名:ゲオルギー=ヘミング・イングリッド・フジコさん) は、 国内外で活躍するピアニストです。 ロシア系スウェーデン人で、建築家・画家でもあるお父様と、日本人でピアニストのお母様との間に生まれました。 ピアノを教わっていたプロのピアニストから称賛されるほど、幼いころからピアノの才能に恵まれていた フジコ・ヘミングさん。 17歳でデビューコンサートを果たし、ピアニストとして数々の賞を獲得されました。 スポンサードリンク 聴力をなくしてもピアニストとして活動 10代の時に、病気で左右の聴力を相次いで無くしてしまうことになるのは、有名な話ですよね。 ) その逆境を乗り越えて、世界で活躍するピアニストになった音楽への情熱あふれる女性です。 2018年6月には映画『フジコ・ヘミングの時間』が公開されました。 男性遍歴は? その映画の特別上映会とミニコンサートが行われた際、 フジコ・ヘミングさんの男性遍歴を 想像させる話題が飛び出しました! コンサートで共演した演歌歌手の藤あや子さんから 「少女のようなかわいさがあって、常に恋をされている。 今も恋をしていますか?」 と聞かれ、 フジコ・ヘミングさんは フジコ・ヘミングさんにとって恋愛とは諸刃の剣のようなものなのでしょうか…? 肝心の、フジコ・ヘミングさんの恋のお相手は一体どんな方なのか?という疑問ですが、このようなお話があります。 スポンサードリンク 恋の相手はゲイだった? 聴覚を失ってスウェーデンのストックホルムで失意の日々を送っていた頃、ハンサムな男性に恋をした フジコ・ヘミングさん。 彼に気に入られたくて贈り物をしたり、長い時間をかけて会いに行ったりしたそうです。 ところが、その相手に「早く帰ってくれ!」と冷たい言葉を投げかけられたことも。 なぜかというと、その男性はゲイだったからだというのです。 ゲイだという事実に、途中まで気付かなかったということなのでしょうか? 大好きになった相手に振り向いてもらえる可能性すらないというのは辛いですよね。 ご自身も「報われないことはやめよう」と語っていたようです。 このゲイの男性への片思いが、 フジコ・ヘミングさんの中では大きな恋愛遍歴の一つのようです。 スポンサードリンク フジコ・ヘミングさんの独特の服装へのこだわりは? フジコ・ヘミングさんの外見を特徴づけているものの一つが、あの、独特の服装ではないでしょうか? やはり、おしゃれに対するこだわりは強いそう。

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フジコ~あるピアニストの軌跡~🎹

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オススメ!2020. 21 フジコ・ヘミングの才能を誰よりも信じ抜いた母の執念 ファミリーヒストリー「フジコ・ヘミング~母の執念 魂のピアニスト誕生~」 2月24日(月・振休)[総合]後7:30 2月28日(金)[総合]前0:55(木曜深夜)<再放送> 第一線で活躍する著名人をゲストに迎え、その家族史を徹底取材する「ファミリーヒストリー」。 本人も知らない家族の秘話が明かされます。 知られざる家族の歴史に、驚きあり、涙ありのドキュメント。 今回は、2月24日放送のフジコ・ヘミングさんの家族の歴史を番組に先立ち少しだけご紹介します。 番組MCを務めるおふたり(左から池田伸子アナウンサー、今田耕司さん) 2月24日(月・振休)はフジコ・ヘミングさんのファミリーヒストリー! 今回のゲストは、「魂のピアニスト」と称賛されるフジコ・ヘミングさん。 彼女の壮絶な人生を描いたNHKドキュメント番組、ETV特集「フジコ~あるピアニストの軌跡~」(1999年放送)は、大反響を巻き起こしました。 遅咲きの60代でブレイクし、80代後半となった今も世界各地のステージに立ち、人々を魅了しています。 ピアニストの大月投網子(おおつき・とあこ)さんとスウェーデン出身のデザイナー、ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングさんとの間に生まれたフジコさんの、家族の歴史をひもときます。 ゲストにフジコさんを提案した中嶋弓子プロデューサーも、前述のETV特集を見て衝撃を受けたと言います。 中嶋P 番組制作者としてもものすごく刺激されましたし、フジコさんの存在を知るきっかけとなる番組でした。 見たときの衝撃は生々しく覚えていて、今でも現役で活躍されている方なので、より深く知りたいと思い、オファーをしました。 フジコさんから、「日本にいるとき、見ていますよ」と出演を了承いただき、取材をさせていただきました。 実家には当時では珍しいピアノが! フジコの母・大月投網子 フジコの母・大月投網子は明治36年に大阪で生まれました。 フジコにとっての祖父・大月専平のインキ製造業での偉業により、投網子は裕福な家庭で育ったそうです。 明治時代、大阪に暮らす個人宅では珍しい高価なピアノが家にあり、幼いころから慣れ親しんでいました。 フジコの母が育った大阪の家のピアノ 投網子は、さらにピアノ演奏の技術を高めたいと音楽教育の最高峰・東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)への進学を目指します。 競争倍率が約7. 5倍という難関をくぐり抜け入学。 厳しい試験を乗り越え、無事4年で卒業し、実家の支援を受けて24歳のときにドイツへ留学します。 投網子はドイツ留学時代に当時最高のピアノのひとつと言われた「ブリュートナー社製」のピアノを購入し、日本に持ち帰りました。 現在は、東京のフジコさんの自宅で大切に使用されています。 フジコの母がドイツから持ち帰ったブリュートナー社製のピアノ 中嶋P 「フジコさんのルーツを探るうえで欠かせない重要なピアノ」が2台あります。 1台目のこのピアノは、空襲が激しくなって渋谷から岡山県に疎開する際に、投網子さんが三鷹に住んでいた姉に預けたことで、戦火を逃れました。 生活費やその後のフジコさんの留学費用を稼ぐために投網子さんがピアノのレッスンで長年使用し、現在は形見としてフジコさんが譲り受け、家族の歳月を見守っています。 投網子 結婚と離婚 留学中のベルリンで投網子は、7歳年下のスウェーデン人 ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングと出会います。 留学して4年目、美術学校で学びながら映画のポスターなどデザインの仕事をしていたジョスタ(当時21歳)と、投網子(当時28歳)は、結婚しました。 ドイツ留学中に出会った、フジコの父・ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングと母・投網子 ドイツでフジコさんが生まれて間もなく、ナチスが勢力を拡大し自由な芸術活動に影響が及び始めるなか、家族は日本で暮らすことを決めます。 ドイツではデザイナーとして活躍していたジョスタですが、日本では思うように仕事が増えませんでした。 生活に行き詰まった夫婦は口論が絶えなくなり、ジョスタは戦争の気配が漂う日本での慣れない暮らしに見切りをつけ、妻と2人の子どもを残して帰国してしまいました。 投網子はジョスタと別れ、幼い子どもたちをひとりで育てていく決意をしました。 中嶋P フジコさんも壮絶な人生を歩んでこられたことで知られていますが、投網子さんの目線に立つと彼女も波瀾万丈な人生でした。 ジョスタが帰国したあとも「家族がこちらに来れるように準備している」とつづられた手紙をもらい、迎えを一途に待っていました。 結局、彼が再び日本に来ることはなく、女手一つで子どもたちを育てるために、ピアノを教えるなどしてひたすら働いたそうです。 受け継がれていたもう一つのピアノ 投網子はフジコが5歳のときに何気なく弾いたピアノの音色に驚き、ピアノを教えるようになりました。 投網子のレッスンはスパルタ式の厳しいものだったそうです。 疎開先の岡山県にある、フジコの通い始めた小学校に国産のグランドピアノがありました。 戦時中であっても投網子は学校に掛け合い、そのピアノでフジコが早朝と夕方に練習ができるように頼んだそうです。 フジコが弾いていたピアノは今でも総社市立昭和小学校で使われています。 フジコが疎開中に弾いていたピアノ 中嶋P 総社市立昭和小学校で使われているのが2台目の「フジコさんのルーツを探るうえで欠かせない重要なピアノ」です。 疎開中、食べ物に不自由するなかでも、フジコさんは投網子さんから、毎日朝晩このピアノで練習をするように言われていたそうです。 その後、平成9年に廃棄寸前だったピアノを地域の人々の呼びかけによって修理し、現在も地元の小学校で大切にされていたことがわかりました。 数奇な運命を経て… 13歳のフジコ 昭和20年、フジコが13歳のときに疎開先の岡山県で終戦を知りました。 戦前に援助してくれていた投網子の大阪の実家は空襲により焼失。 一家の生活はさらに苦しくなっていきました。 それでも投網子はフジコにピアノを続けさせました。 フジコは16歳のときに、中耳炎をこじらせ、右耳の聴力を失います。 それでも聞こえる左耳を頼りにピアノを続けました。 母と同じように東京藝術大学に進み、ドイツ留学を目指していた矢先に無国籍であることが判明。 その後やっとの思いで留学し、チャンスをつかむも、度重なる不運がフジコを襲います。 さらに平成5年、母・投網子が亡くなりました。 しかし、平成11年、フジコ60代のとき、その苦難に満ちた人生が注目されます。 80代となった今も常に会場は満員。 投網子が信じたフジコの才能は開花しました。 中嶋P フジコさんの壮絶な人生の裏にはそれを裏付ける家族の歴史がありました。 今の華々しい彼女があるのは、母のすさまじい教育であり、執念であり、戦争による悲惨な苦悩があったからこそ。 フジコさんのファミリーヒストリーをたどり、人生は順風満帆にキレイに行くものではなく、傷つき、失い、残るべきものは残る。 これが本当の歴史なのだと改めて感じました。 特に今回は母子のストーリーとして胸にくるものがあると思います。 ぜひ見ていただきたいです。 ほかにも、今のフジコ・ヘミングにつながるさまざまな歴史が紹介されます。

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ピアニスト、フジコ・ヘミングさんの名言を読むと発想転換ができる!

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どんなに辛くても、チャンスを失っても、 ピアノに向かい続けた一人の女性がいました。 フジコ・ヘミング。 彼女の軌跡を描いたドキュメントがNHKで放送され、 大きな反響を呼びました。 そして彼女のデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は クラシック界では異例の200万枚以上の売上を記録したのです。 彼女の著作『希望の力 くじけない、あきらめない心』より その壮絶な軌跡をご紹介します。 フジコヘミング 父親はスウェーデン人の画家、 母親は日本人のピアニストの卵。 彼らの間にフジコは生まれた。 フジコの母親はピアノの家庭教師をしていた。 そのため小さい頃から母親が弾くショパンを聴きながら眠ったという。 そんな彼女がピアノを習い始めたのは4歳。 しかし面白いと感じることはなく、 いやいやピアノを弾いていた。 教えていた母親が厳しかったのも理由としてあったかもしれない。 レッスンは1回2時間、 それが2、3回も繰り返される。 フジコが間違えるとコテンパンに怒鳴られる。 そんな日々だった。 でも、彼女はグッと歯を食いしばってそれを乗り越えた。 するといつのまにかピアノは面白いと感じるようになっていたという。 そしてフジコが高校生になった頃も変わらずピアノ漬けの毎日。 「人生には、いつどんなことが起きるかわからない。 お前はピアノ以外、何ができる? ピアノだけがお前のとりえなんだから、しっかりしなさい。 」 母親からの言葉を今でも覚えているという。 フジコヘミングの壮絶な日々の始まり そんなフジコの努力のかいがあり、 17歳で銀座のヤマハホールで初めてのリサイタルを開くことになった。 娘心に、つらくても努力して頑張れば、 必ずその先にはいいことが待っているんだって思ったわ。 高校を卒業後、東京芸術大学に入学し、さらにピアノの勉強を始める。 コンクールに入賞し、また数々の賞を受賞した後、 多くの人の助けがあったおかげで 念願だった、ドイツのベルリンへピアノ留学を果たす。 フジコヘミングが29歳の時。 しかし待っていたのは長く苦しい生活のはじまりだった。 その大学では日本人も多くいたが皆裕福な環境で、 「難民」という特別な待遇だったフジコは 胸をときめかせるような素晴らしい 状態のまま次第に孤立していく。 日本では「異人」といじめられ、 生まれたドイツでは「東洋人」と見られ、 日本人の留学生からは「よそ者」とされて 仲間に入れてもらえない・・・。 「どうして?私の故郷はどこ?」 抱いていた夢が消えそうだった。 フジコはそう不遇の時をそう している。 そんな環境でも彼女はで大学を卒業し、 ドイツの隣の国、オーストリアの首都ウィーンへ移る。 多くの素晴らしい音楽家と出会い、 希望に満ちていたが、 ただお金が無かった。 パスポートがなく仕事もない。 頼りは母親からのわずかな仕送り。 毎日、ジャガイモとにんじんにカレー粉を入れたスープ、 食べるものが無くなると、 一週間砂糖水だけで過ごした日もあったという。 壮絶な日々から抜け出せるチャンス ある日、辛く貧しい日々を過ごしていたフジコにチャンスがくる。 世界的な音楽家パーンスタインの演奏会が開かれることを知ったフジコは なけなしのお金でチケットを買い、 そしてバーンスタインへ自分の写真と手紙を送った。 自分の道は自分で切り拓くしかない、そう思ったからだ。 演奏会後、バーンスタインの楽屋を訪ねたフジコ。 彼はフジコの手紙を読んでくれていて、 その場で「ピアノを弾きなさい」と言ってくれた。 私は無我夢中でリストの「ラ・カンパネラ」や「愛の夢」を弾いた。 すると、聴き終わったバーンスタインが私を抱き寄せ、 キスしてくれたのよ。 神様が微笑んだ。 そしてウィーンの街角にフジコのリサイタルのポスターが貼られた。 とうとう夢が叶う。 苦しくても前を見つめて頑張ってきたからだ。 どんなことも、あきらめなければ 必ず道は開けてくる。 そう思った。 フジコヘミングの本当の壮絶な日々 リサイタルの1週間前、 暖房もない寒い部屋で暮らしていたフジコは風邪をひいてしまった。 それが原因で子供の頃にかかった中耳炎が再発してしまう。 慌てて大学病院に駆け込んだが、 お金も健康保険もなかった。 フジコは聴力を失ってしまった。 その後、耳が聴こえないままリサイタルを行ったが 結果はメチャメチャ。 翌日のリサイタルを全てキャンセルしたという。 せっかく掴んだ最高のチャンスを逃してしまい、 毎日、泣いて過ごした。 悪魔のせいだ、もう終わりだと思った。 しかしフジコはピアノを弾き続けた。 一度ウィーンを離れたが、再びドイツに戻り 耳の治療をしながら、 ピアノ教師の資格をとる。 教師として働きながらコンサートを続けて暮らしていた。 そして母親の不幸があったため、 日本へ帰国。 フジコは日本で母校でのコンサートを行なうなど活動を続けていた。 そんな彼女の壮絶な人生を描いたドキュメンが放送され、 デビューCDが爆発的にヒットするなど、 フジコの名前は多くの人に知られるようになった。 放送後の東京オペラシティでの復活リサイタル後、 本格的に音楽活動を再開する。 有名なオーケストラと協奏、 また2009年の日本ツアーでは5万人を動員するなど 現在でも彼女は国内外で幅広い活躍を続けている。 私の人生はこの風邪のせいで狂ってしまった。 あのリサイタルが成功していればと思う。 誰にも不幸はあり、全部いいことばかりの人はいない。 だから大事なことは、失敗や不幸に負けず、 どう乗り越えていくかね。 私の場合は、 ただ正直にピアノを弾き続けてきた。 また、もしあなたの仕事が上手くいっていなかったり、職場での悩みがあるのであれば「」もあわせて読んでみましょう。 きっと今までの悩みや問題が一瞬で解決できるキッカケをつかむことができるはずですよ。

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