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【三矢の訓】毛利元就とはどんな人?生涯・名言・偉業も解説

毛利 庭園 生誕 の 地

「毛利元就」と聞くと皆さんはどんな印象をお持ちでしょうか。 「3本の矢の教え」として有名な三子教訓状を思い浮かべる人が多いかもしれません。 1本の矢では簡単に折れてしまうが、3本の矢を束ねると容易には折れないと説き、息子3人がよく結束して家を守るように伝えたと言われている教えです。 これは後の創作であって事実ではないとする説もありますが、毛利元就の人柄や家を想う気持ち、息子たちの団結力すらも表している素晴らしい教えだと思います。 では毛利元就は何をした、どんな人なのでしょう。 大河ドラマなどを見ていても毛利元就が登場することはほとんどありません。 何故ならドラマや映画などで戦国時代を描く場合のほとんどが織田信長らが活躍した1550年あたりをメインとすることが多いからです。 毛利元就が現役で活躍した時代は、織田信長や豊臣秀吉など誰もが知る戦国の英傑たちが生まれる前なので、元就の名前は出てきても登場することはまずありません。 織田信長の名が全国に轟いたと言われる「桶狭間の戦い」が起きた1560年頃には、すでに前線を退き家督も嫡男である隆元に譲ってしまっているという戦国初期の大名なのです。 輝かしい活躍をしてはいるのですが時代が早すぎた為に脚光を浴びる機会は少ないようです。 同時代を生きたのはマムシこと斎藤道三や相模伊豆の北条早雲などがいます。 信長や秀吉や家康と言った三大天下人が登場し名を馳せる頃には、すでに中国 地方に元就が築き上げた毛利王国が君臨しているわけです。 天下統一も可能だったほどの勢力を持っていたと言われますが、そんな野心や野望よりも家を守り家族や家臣を守るということに尽力した毛利元就。 幕末の長州藩へと続く毛利の一大王国を築き上げた元就の偉業を紹介しつつ、彼が残した史跡も併せて案内してみたいと思います。 (文=taka) 【目次】• 鈴尾城跡(元就誕生の城) まず毛利元就が同世代を生きた武将たちよりも時に大きな存在として感じられるのは戦国はもちろん江戸や明治、もっと言えば現代にまで少なからず影響を与えているからではないでしょうか。 元就が築いた中国 地方の毛利王国は幕末には長州藩として躍進し、明治政権の中心となるまでの力を付け初代総理大臣を排出するまでに至ります。 戦国時代に目覚ましい活躍をしただけでなく、江戸や明治以降といった日本の近現代史にまでその影響力は生き続けていると言っても過言ではないでしょう。 そしてやの家系が数代で早々に潰されたのと比べると、「三本の矢」として語られる息子たちを育て未来に家を残した元就の先見の明と実力は目を見張るものがあります。 戦国初期の西国に思いを馳せながら毛利元就の出生や幼少期から見ていこうと思います。 1497年(明応6年)3月14日に今の広島県、安芸の国人領主であった毛利弘元と福原広俊の娘(正室)との間に次男として誕生します。 戦国を描くドラマで中心になることが多い織田信長の生誕が1534年なので、毛利元就はそれより40年近くも前にもう生まれているのです。 中央では日野富子らが室町10代将軍・足利義材を廃して11代将軍を擁立する「」が起きており、1467年の「」から続く一連の騒乱によって戦国時代は幕開けしていました。 毛利元就の父は大名ではなく大河ドラマで知られる真田家や井伊家のように小さな国衆として周囲の大勢力に翻弄されながら自国を守るという小国の領主でした。 母の実家の鈴尾城(福原城)にて誕生したと言われている元就は「松寿丸」と幼名をつけられ、嫡男ではなく次男として生まれたので相続 権はありませんでした。 現在は毛利元就誕生の石碑が残る鈴尾城は福原城とも呼ばれ、福原広世が築城して以来福原氏の居城でした。 城の東側の斜面に居館跡と伝わる広大な平坦部があり、そこで生まれたとされています。 遠くから見た、元就誕生地とされる鈴尾城跡(出所:) 城は前面に江の川が流れ小高い要害のようになっておりその頂部に本丸がありました。 また東山麓に福原氏一族の墓所があります。 鈴尾城跡へは車かバスで行くことになります。 交通の便が良い場所ではありませんが車でしたら中国自動車道高田ICから約20分くらいです。 公共の交通手段は広島バスセンターから1時間10分ほどで宮之城にて下車、徒歩10分くらいです。 多治比猿掛城(元就が幼青少年時代を過ごした城) 元就が生まれて3年が経った1500年(明応9年)に中国地方の大名・大内氏の勢力下にあった毛利家は幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれます。 幕府と大内氏それぞれの命に従うように言われ板挟みとなり、どちらにも逆らうことが出来ない父・弘元は自身の引退という形でこれを解決し、33歳の若さで家督を嫡男・興元に譲ってしまいます。 隠居を決意した弘元は嫡男に鈴尾城を譲ると、次男の松寿丸を連れて「多治比猿掛城」(たじひさるかけじょう)に移り住むことになります。 遠くから見た多治比猿掛城跡 元就の悲劇はここから始まります。 多治比猿掛城に移った翌年には実母が死去し、松寿丸が10歳となった1506年に父の弘元も身体を壊して急 逝。 酒が原因と言われています。 松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住みますが家臣の井上元盛によって領地を横領され、まだ幼き身にして城を追い出されるという憂き目に合い、周囲からは「乞食若殿」と蔑まれてしまいます。 困窮する生活と武士としての窮地を救ってくれたのは、父の継室つまり義理の母・杉大方(すぎのおおかた)でした。 元就の父・弘元の側室で、正室(元就の母)の死後に継室になったと伝わっており、幼少で城を追われた松寿丸を不憫に思った杉大方は再婚もせず養育に力を注ぎました。 その後、所領を横領した井上元盛が急死したため、多治比の地は再び毛利元就のもとへと戻ります。 1511年になると杉大方は家督を継いだ毛利興元が京都にいる時に使いを出して松寿丸の元服について相談しています。 そして兄の許可をもらって晴れて松寿丸は元服し、「多治比元就」と名乗って分家を立て、多治比殿と呼ばれるようになりました。 元就にとって幼少期を支えてくれたこの杉大方への感謝の気持ちは計り知れず、後に書状などで感謝と尊敬の念を伝えています。 先に触れた「三子教訓状」は息子達に謙虚な信仰心を持つようにと伝える文章の一部ですが、杉大方が元就の信仰に大きな影響を与えたことが窺えます。 西の覇者として君臨し、多くを語られる機会の少ない毛利元就は、ともすれば西の大国を築いた大物としての印象を持たれがちですが幼きころは幾度も苦労を重ね憂き目に会い、辛酸を舐めさせられ続けていたというの事実が驚きであり敬意の念すら覚えます。 元就が少年期と青年期を過ごした「多治比猿掛城」は鈴尾城の北に位置し前面を多治比川が流れ、本丸からは郡山方面を眺望できます。 城跡は本丸のある中心部、山頂の物見丸、山麓の出丸などに分かれており、本丸の南側には巨大な堀切もあります。 近くに杉大方の墓や毛利弘元夫妻の墓もあり弘元の菩提寺の教善寺もあります。 この城でや五龍局が生まれました。 多治比猿掛城へはJR芸備線の吉田口駅から行くか、JR山陽本線の広島駅からバスで行くことが出来ます。 有田城 それから約5年後、1516年に元就の運命が大きく変わります。 兄であり毛利の家督を継いだ総領でもある興元が急逝してしまうのです。 父と同じく酒が原因だったと言われています。 これにより毛利家では興元の嫡男である幼子の幸松丸(こうまつまる)をわずか2歳でありながら家督を継がせることに決めます。 そして幸松丸からは叔父にあたる元就が、幸松丸の母方の祖父である高橋久光と共に後見となることになります。 当主が立て続けに亡くなり、主君が2歳の幼子となった毛利家では動揺が広がり混乱は避けられない状況となりました。 それを好機とみた佐東銀山城の城主・武田元繁が吉川領の有田城へと侵攻してきました。 「明応の政変」後、大内氏に服属していたが本来は安芸守護という名門だった武田元繁は、厳島神社の神主家の跡目争いの混乱に乗じて大内氏から離反し挙兵したのです。 安芸国内で勢力を拡大していた武田元繁にに対抗すべく、幸松丸の代理である元就は西隣の吉川氏の有田城の救援に向かいます。 それは若干20歳となった元就の初陣となり、毛利家の命運をかけた戦いとなりました。 1517年(永正14年)10月22日、有田へ進軍した毛利・吉川連合軍は、猛将として知られる武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を撃破し、これを討ちとりました。 有田城を包囲していた武田元繁は敗戦の報に激怒し、一部の手勢を有田城に残すと、自ら主力部隊を率いて毛利・吉川連合軍の迎撃態勢に入ります。 勢いに乗った武田軍との戦いは多勢に無勢で、元就率いる吉川との連合軍が押されます。 一時、又打川の東まで軍を後退せざるを得なくなると元就 は兵を叱 咤激励して踏ん張り、武田元繁が先頭に立って馬で川を渡ろうとした瞬間を狙い一斉に弓を射掛けました。 矢は武田元繁の胸を貫き、崩れるように川へ転落。 そこへ毛利軍の兵士が駆け寄り首を取ったと言います。 大将を失った武田軍は総崩れとなって多くの将兵を失い、撤退する結果となりました。 このは武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となりました。 「西国の桶狭間」とも呼ばれる小が大を制したこの勝利により安芸の国人「毛利元就」の名は世間に知られるようになるのです。 鏡山城 その後、大内氏から離れて尼子氏側へと鞍替えした元就は、幸松丸の後見役として安芸国西条の鏡山城の戦いにおいても、 攻略戦により大内方の副将を寝返らせ、尼子軍を手引きさせるなど一番の戦功を獲得し、その智略により戦功を重ね毛利家での信望を集めていきました。 遠くから見た鏡山城跡(出所:) 鏡山城の戦い後に甥で毛利家当主の幸松丸が突如9歳で亡くなってしまいます。 続けざまに急逝する毛 利家の重要な人たち。 3代続いての不審な死は暗殺や陰謀だという説が囁かれるのも頷けます。 ここで当主とは縁のなかったはずの元就が重臣たちの推挙により、27歳で毛利本家の家督を継ぐことになるのです。 その際に彼の才覚を恐れたが元就の異母弟・相合元綱の擁立を画策するも、元就はすぐさま元綱と支持派を粛正し尼子からの介入を退けました。 そんな尼子氏を見限ってか再び元就は尼子氏側から離れ、大内氏の配下となったのでした。 元就の躍進のきっかけとなったこれらの戦いの舞台となった有田城と鏡山城は広島市の校外に位置します。 有田城へはJR可部線・可部駅から中国ジェイアールバスに乗り「有田 北広島町」バス停で下車し徒歩約8分ほどです。 鏡山城は現在は鏡山公園となっておりJR山陽本線・西条駅からバスに乗り「鏡山公園入口バス停」で下車して下さい。 この戦いが行われていた頃に吉川国経の娘、妙玖(みょうきゅう)を正妻に迎えたとされており、27歳の時に長男の隆元が誕生し、それから5人の子宝に恵まれています。 夫婦間は仲むつまじく、1545年の秋に妙玖が死去するまで元就は側室を置かなかったそうです。 息子たちは「三本の矢」として名高い、毛利隆元、、の3名に成長します。 吉田郡山城跡(毛利氏の居城) 1523年、元就は居城を吉田郡山城に移します。 当初は砦程度の小規模な城で、一般的な国人領主や豪族の城と変わりませんでした。 元就は国人領主の盟主から戦国大名への脱皮を図り、郡山全体に城域を拡張していきました。 毛利元就の本拠・吉田郡山城跡 1529年、安芸国内での勢力拡大に奔走する元就は毛利家の家督相続において相合元綱を擁立しようと画策した高橋氏を討伐。 この家はもともと甥・幸松丸の母方の実家でしたが、これを実力で奪い取り安芸から石見にかけての広大な土地を手中に収めることに成功します。 1535年には備後の多賀山氏の蔀山城(しとみやまじょう)を攻め降伏させるなど、戦による勢力拡大の一方で婚姻関係でも周囲との結びつきを強めていきました。 勢力が拡大したとはいえ周囲の大名に比べてまだまだ貧弱な毛利家にピンチが訪れます。 1540年、毛利を討つべく尼子詮久(後の晴久)率いる3万の大軍が居城である吉田郡山城に攻め寄せて来たのです。 これが中国地方の戦国史で有名な「」です。 元就はわずか3千の兵と共に郡山城に籠城し、もはや陥落を待つのみという危機に陥っていました。 遅れて到着したの援軍や宍戸氏らの協力もあり、何とかこの戦いに勝利し勢いに乗って佐東銀山城を落城させ安芸守護の武田氏を滅亡へと追い込みます。 九死に一生を得たこの勝利により、元就の名声はさらに高まり、安芸国の中心的存在に一気に浮上したのです。 吉田郡山城の戦いの舞台としても有名な「吉田郡山城」へはJR芸備線の向原駅からバスに乗り約25分、「安芸高田市役所前」バス停で下車して徒歩5分ほどです。 毛利氏の居城として知られ山全体を要塞とする巨大な城郭でした。 もここを居城としており広島城へ移るまで使われていました。 毛利元就墓所、三本の矢の記念碑、百万一心の石碑 現在は調査や整備が進められており、城址内には毛利元就や隆元など毛利一族の墓所のほか、「三本の矢」の伝説を記念した石碑や「百万一心」と書かれた石碑もあります。 また山麓には毛利元就の銅像も建てられています。 何かと見所の多い観光地となっておりますので毛利を知るには必見のお城と言えるでしょう。 吉田郡山城の毛利元就墓所 百万一心の石碑(出所:) なお、元就の命日である7月16日(新暦)には毛利元就公墓において毎年墓前祭が行われており、晩年の元就を偲ぶ場所として元就ファンも多く訪れるそうです。 御里茶屋跡、天神山城址、清神社 付近には毛利元就ゆかりの史跡が点在しており、毛利氏が居館としていた「御里茶屋跡」や吉田郡山城の戦いの時に大内氏が本陣を置いた「天神山城址」などもあります。 また、南側のふもとに佇む「清神社(すがじんじゃ)」は築城以前からあった古社で、元就をはじめ毛利氏一族から熱心に崇敬されていたそうです。 清神社 安芸高田市歴史民俗博物館 時間があれば多くの資料などから歴史をしっかり勉強できる「安芸高田市 歴史民俗博物館」に行くこともおすすめします。 お城のような入口には毛利家の家紋が描かれたのぼりがはためき、毛利元就の肖像が迎えてくれます。 安芸高田市歴史民俗博物館(出所:) 佐東銀山城 そして吉田郡山城の戦いで元就が落城させた安芸武田氏の居城、佐東銀山城は「有田中井手の戦い」で衰退した武田氏を元就が攻めて落城させました。 その後は大内氏の支配下となり城番が置かれましたが後に起きる「」の前哨戦として元就は再び攻略し毛利氏の城となります。 佐東銀山城へはJR可部線・大町駅から第一タクシーバスに乗り「武田山団地西」バス停で下車して徒歩で約12分ほどです。 遠くから望む安芸武田氏の居城・佐東銀山城跡 月山富田城 1542年から1543年にかけて、大内氏が義隆を総大将として出雲の尼子氏居城を攻める「月山富田城」の戦いが始まります。 この戦で元就は同盟国であるはずの吉川氏の吉川興経らの裏切りなどに遭い大敗します。 絶体絶命の危機を部下が身代わりとなって助け、命からがら安芸国へ帰国しました。 出雲の尼子氏の本拠・月山富田城跡 翌1544年に跡取りが不在となった竹原小早川家から養子の要望を受けて、後に小早川隆景となる三男の徳寿丸を差し出しました。 1545年には正妻の妙玖と養母であり恩人の杉大方が相次いで亡くなってしまい文献などにより元就がかなり気落ちしていたことが伺えます。 そしてその翌年に元就は隠居を表明し嫡男である隆元に家督を譲ってしまいます。 これはあくまで表面上のことで実権はほぼ元就が握っていたとのことです。 月山富田城の戦いで同盟国であるはずの毛利家を裏切った吉川家当主の興経は一族内で諍いを生じさせており、 反興経派が吉川家の血を引く正妻・妙玖の次男である元春を養子にしたいと申し出たため元就はこれに応えています。 元春を養子に迎た家臣団によって当主の吉川興経が強制的に隠居させられ暗殺により命を奪い、吉川元春を当主として基盤を固めることに成功します。 毛利のものとなった吉川家に続き、毛利が欲しいのが小早川家でした。 小早川家は安芸東武の名門でしたが、早くから竹原小早川と沼田小早川に別れており、竹原小早川氏のほうにはすでに息子を送り込んでいました。 もう一方の沼田小早川氏は当主が月山富田城の戦いで戦死しており、当主となった小早川繁平は幼少であったため「尼子氏の侵攻には対抗できない」と主君である大内義隆が判断し、 繁平に対して内通嫌疑をかけて高山城から追放した後に息子も一緒に暗殺してしまいます。 これは元就の謀略であったとする説があります。 すでに竹原小早川家の当主となっていた毛利家の三男・隆景を暗殺した繁平の妹と結婚させ、見事に小早川両家を合体させ当主に据えることに成功します。 これにより元就は広大な領土と共に、村上水軍で有名な大三島などの瀬戸内海をも手に入れ、毛利家には無かった水軍を保持することにも成功します。 水陸両用とも言える強固な軍を持ち、毛利家を吉川家と小早川毛でがっちり守る「毛利両川体制」を確立させました。 ここで毛利元就の歴史紹介からちょっと脱線しますが、毛利の両川と称された2人「吉川元春」と「小早川隆景」の史跡を紹介したいと思います。 小倉山城・日野山城 吉川元春は山陰地方の政治・軍事を担当するため居城を安芸国の大朝にある「小倉山城」から、自ら築いた「日野山城」に移しています。 家督を嫡男の元長に譲って隠居すると、吉川氏一族の石氏の治めていた地を譲り受けて、隠居館の建設を開始。 この館は後に「吉川元春館」と呼ばれるようになりますが、元春の存命中に完成するこ とはなかったそうです。 隠居の身でありながら秀吉の九州平定に参加しますが出征先の豊前「小倉城」二の丸で病死しました。 享年57歳でした。 吉川氏の本拠・小倉山城跡 北広島町にある「小倉山城跡」は、国の史跡に指定される9遺跡「吉川氏城館跡」のひとつとして知られ、現在は歴史公園として公開されています。 吉川氏によって築かれた「日野山城」は「吉川氏城館跡」のひとつとして国指定史跡に指定されており、登山道も整備されています。 元春は小倉山城から居城を日野山城に移し、元春・元長・広家と吉川氏三代の居城でしたが、1591年に広家が出雲の富田城に居城を移したことに伴い廃城となりました。 吉川元春館跡・豊前小倉城 吉川元春が北広島町志路原川の河岸段丘上に隠居所として建設した「吉川元春館」も吉川氏城館跡のひとつであり、発掘調査の後に歴史公園として整備されて一般公開されています。 館跡の奥に入った林の中には吉川元春と元長の墓所があります。 吉川元春館正面の石垣 元春は九州平定での出征先で亡くなるのですが、元春が最期を迎えた北九州の「小倉城」はゆかりの地として有名な城でもあります。 二の丸で絶命したと伝わっておりますので、二の丸跡で元春を偲んでそっと手を合わせてみたいです。 小倉城(復興天守) 高山城・新高山城・三原城 小早川隆景は元就の三男として安芸吉田郡山城で生まれ養子に出されると沼田小早川家の本拠「高山城」に入城しますが、翌年には沼田川を挟んだ対岸に「新高山城」を築城して新たな本拠としています。 新高山城は1596年に瀬戸内海に面した「三原城」へ移るまでの45年間、小早川氏の本拠として使われました。 三原城の築城および修築の際に石垣などを持ち去ったため遺構はわずかに残るのみです。 高山城本丸跡 本丸からの眺望は良好で、沼田川対岸にある高山城跡を眺めることもできます。 建築物の遺構としては市内にある宗光寺山門が新高山城の大手門を移築したものと伝えられています。 新高山城から移った「三原城」は浮城とも呼ばれ、三原湾から毛利水軍が出撃できる水軍城として築城され三原要害とも呼ばれています。 高台から望む三原城跡 1587年、豊臣秀吉の九州攻めの際に隆景は加増を受けて「名島城」の城主となった為、しばらく三原城を離れていましたが、1595年に養子・に家督を譲ると三原城に戻って隠居しました。 天主台の西側のバスターミナルの真ん中にある「隆景広場」には小早川隆景の銅像があります。 湯築城・道後温泉・米山寺 さらに隆景は四国攻めの功績により秀吉から伊予一国を与えられ独立大名として扱われましたが、それを拒み一度毛利家に伊予を与えてから改めて受領する形で毛利家の一武将としての体裁を保つという毛利家への忠誠を示しました。 その後「湯築城」に入城した隆景は「大洲城」に秀包を配置するなど伊予の統治に力を入れ、伊予支配の素晴らしさをルイス・フロイスが称賛している文献が残されているほどです。 「湯築城」は「道後温泉」にもほど近いので訪れる際には夏目漱石も宿泊し、ジブリの「千と千尋の神隠し」のモデルとなった道後温泉につかってみるのも一興かと思います。 隆景も傷を癒すために湯治としてつかっていたかもしれません。 そして1597年6月12日に享年65で死去すると、安芸国豊田郡の米山寺(べいさんじ)に埋葬されました。 ここは小早川家の菩提寺で初代から17代隆景までの供養塔が国の重要文化財指定を受けており、20基もの墓が整然と並んでいます。 また寺の宝庫には国の重要文化財となる小早川隆景像があります。 小早川隆景の墓もまた県の史跡に指定されています。 毛利の両川と称された「吉川元春」と「小早川隆景」の史跡を紹介しました。 毛利の史跡巡りと併せてぜひ訪れてみて下さい。 厳島神社と宮尾城 さて、隠居してからも実権を握り、大内義隆に従いながらもついに中国地方で大きな勢力を持つに至った毛利元就に再び転機が訪れます。 1551年、当時の中国地方の覇者であった大内義隆が家臣の(すえはるかた)によって殺害され中国地方に激震が走りました。 主君筋であった義隆の死で、意気消沈するどころか好機と見た元就は、大内氏に「」という内乱が起きるとすぐさま同調し、武田氏がいた佐東郡(広島市)などを奪取します。 大内氏支持であった平賀氏の当主をすげ替え傘下に収めます。 山の毛利が広島湾に面した海まで領有したことで、小早川を含めて水軍の力が一気に強化されました。 急拡大する毛利家の勢力に危機感を抱いたのがクーデターによって大内 氏の実権を奪った陶晴賢でした。 両者は反発するようになり対立が激しくなっていく中、大内氏配下の石見(島根県西部)の吉見氏が、陶晴賢に叛旗を翻しました。 これに対し陶晴賢はすぐさま安芸の国人衆たちに鎮圧の使者を出しますが、頭越しの出陣命令を気に入らない元就と衝突して決裂してしまいます。 当時の大勢力であった陶晴賢率いる大内勢は兵力3万もあるのに対し、毛利勢は最大でも5千あまりという相当に苦しい実情で、 正面から当たって崩せる相手ではなく、元就は得意の謀略を用いて大内家の内部から分裂するよう計りごとに尽力しました。 1554年に元就は、石見の謀反鎮圧に手間取っている陶晴賢に対して堂々と反旗を翻します。 大内の大群と少数である毛利家の対戦は「厳島の戦い」と称され、元就の鮮やか過ぎる戦術で「西国の桶狭間」をしのぐほど有名な戦と言えるでしょう。 最初の戦闘で敗北したことに激怒した陶晴賢は自ら大軍を率いて毛利氏の交通かつ経済の要衝である厳島の「宮尾城」攻略に乗り出しました。 厳島(安芸の宮島)は日本三景の1つとして知られる瀬戸内海に浮かぶ景勝地であり、海上に浮かぶ大鳥居で知られる同神社が激しい戦闘の場になったというのは想像がつきません。 ポツンと島の中にお社が建つ「宮尾城跡」も大軍を置くには狭すぎるように感じました。 厳島神社へ観光に行く際にはぜひ立ち寄ってみて下さい。 厳島神社(社殿) 厳島の合戦に先立ち、陶晴賢の水軍が「宮尾城」を攻めるも攻略出来ず、家臣の三浦房清が進言したのが厳島への上陸でした。 これを受けた晴賢は陶軍約2万をもって厳島へと進み、宮尾城が見通せる厳島神社のすぐとなりに本陣を置きました。 この知らせを受けた元就は水軍の基地である対岸の「草津城」に入り、熊谷信直率いる水軍を宮尾城へ 援軍として派遣させます。 宮尾城では水源が絶たれ堀も埋められ攻撃されるのを待つばかりでしたが、陶軍は日柄が悪いと総攻撃を延期していたことが明暗を分けました。 およそ4000の毛利軍は厳島への渡海を準備しており、夕刻から天候が崩れて暴風雨となった事を天のご加護であると将兵を鼓舞し、夕闇と嵐に紛れて島に上陸すると村上水軍を沖合に留まらせて開戦を待ちました。 翌日の早朝6時になると毛利軍は一気に奇襲攻撃を開始します。 陶軍の背後から主力が襲いかかると、それに呼応して小早川の別動隊と宮尾城の兵が陶本陣を正面から攻め掛かり、 沖合で待機していた村上水軍が陶水軍を焼き払いました。 圧倒的大軍と前夜の暴風雨で油断していた陶軍は瞬く間に総崩れとなり、狭い島の中で追い詰められた陶晴賢は自刃して果てました。 この一戦を機に大勢力だった大内家は陶晴賢を失い弱体化し衰退していき、逆に毛利家の家名は全土に轟いて更に勢いを増して一気に上昇していくのでした。 元就は大内氏の内紛のごたごたに乗じて当主となっていたを討つことで、複数の国を支配した大大名の大内氏をついに滅亡させてしまいました。 周防、長門といった今の山口県のほぼ全域を手に入れた元就は、出雲の尼子氏と肩を並べるほどの西国の大大名に上り詰めたのです。 石見銀山 厳島の戦いのきっかけとなった銀山の攻防は石見が戦場となっており、今も銀山は観光地として訪れることができます。 かつては「石見銀山」として栄え、今では日本を代表する鉱山遺跡としてユネスコの世界文化遺産への登録もされた出雲観光の外せない名所と言えるでしょう。 石見銀山の清水谷製錬所跡 最盛期は日本の銀産出の三分の一ほどを支え、日本の歴史において重要な役割を担っており銀山の争奪などにより数多くの戦いが繰り広げられてきました。 周辺には毛利元就を祀る「豊栄神社」もあります。 また、石見銀山の歴史を知りたい方は 「石見銀山資料館」もあるので是非とも訪れてみてください。 石見銀山の清水谷製錬所跡 1560年に名武将として知られたが急死すると元就は出雲侵攻を開始し、尼子氏の居城「月山富田城」を包囲します。 は数年続き、1566年には晴久の子で当主となっていた尼子義久を降伏させました。 これにより戦国大名としての尼子氏は滅亡します。 さらに四国は伊予の河野氏をも下し、元就は一代にして中国地方を中心とした一大毛利帝国を築き上げることに成功したのです。 このときすでに60歳になる元就は中国地方の安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、伯耆、隠岐の8カ国と四国の伊予を支配する大大名にのし上がったのです。 洞春寺(元就菩提寺、毛利一族の墓所) 一大勢力であった大内氏と尼子氏を滅ぼし毛利王国を築いた元就ですが、山中鹿之介率いる尼子残 党や大内氏の残党を支援する九州豊後のらとの戦が続いていました。 大友宗麟とは博多湾の支配権を大友氏へ渡すことで和睦し、尼子の残党軍を一掃することで毛利家の地盤を盤石なものとしました。 尼子と戦をしている間に当主を譲っていた息子の隆元が急死するという悲劇に見舞われ、隆元の嫡男であり元就の孫である輝元に家督を継がせます。 そして一代で毛利家を西の大大名にまで成長させた毛利元就は自ら築いた王国を見守るようにして、1571年6月14日にふるさとの吉田郡山城で死去しました。 75歳まで生きたことは、人間50年とされたこの時代としては破格の長寿ともいえるので大往生であったと言えるでしょう。 山口市水の上町にある洞春寺は毛利元就の菩提寺です。 元々、洞春寺は元就が没した翌年の1572年(永亀3年)、孫の毛利輝元が吉田郡山城の山麓に建立されました。 しかし、関ケ原合戦(1600年)で敗戦し、毛利氏が周防国・長門国(長州藩)に減封されてからは山口に、次いで萩城内に移り、明治になって再び山口に移って現在の地に至っています。 洞春寺(山口市) 常栄寺跡 隆元の墓所 1563年に41歳の若さで急死した元就の長男隆元は弟の吉川元春や小早川隆景によって菩提寺「常栄寺」が建てられ、今も石碑が残るので隆元を偲ぶ場所になっています。 常栄寺 山口市 (出所:) 広島城(輝元が築いた城) 元就の死後に家督を継いだ毛利輝元が築いた「広島城」も毛利家の隆盛を表わすような立派なお城なので、ぜひ毛利家の史跡としても訪れて欲しい場所です。 広島城(復元天守) ちなみに元就が亡くなったこの年は織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちした年であり、信長包囲網として畿内の諸勢力や武田信玄からの脅威にさらされていました。 信長が天下統一のため中国地方へ侵攻するのは元就の死からまだまだ10年近くも後の話になります。 大河ドラマや映画テレビでは登場することの少ない毛利元就という西国の覇者を史跡を巡りながら少しでも知って頂けたら嬉しいです。 毛利博物館 最後に毛利家の歴史をより知りたい方は旧毛利家本邸を改築した「毛利博物館」に足を運んでみてください。 毛利博物館(出所:) 毛利家代々の宝物が展示された博物館として公開されており、国宝4点をはじめとする品を入れ替えつつ展示し毛利邸の歴史や文化を紹介しています。 名勝としても有名な毛利氏庭園は心が落ち着くような和の原風景を演出してくれます。 毛利元就の史跡や「三本の矢」として知られる元就の息子3人、長男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景の歴史を追いかけてみたことで、不思議と家族の絆や家を守る強い気持ちなどに気付かされ、自分の家族や仲間たちを大事にしなければと想わされたのは収穫でした。 毛利家ゆかりの地を巡る歴史散策の旅としてだけではなく、家族など自分の大切な人を想う旅になるかもしれません。

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毛利庭園(毛利甲斐守邸跡)

毛利 庭園 生誕 の 地

毛利氏ゆかりの地を訪ねる 博物館を出て、現在の厚木市内に残る毛利庄と毛利季光の跡をたどってみる。 鎌倉時代でいえば下毛利庄と推定されるあたりから、毛利庄の中心地であり季光屋敷があったとされる光福寺まで移動し、現地を巡って情報がないか調べてみよう。 訪ねた毛利氏ゆかりの地の位置関係は以下の地図の場所になる。 今回訪ねた場所。 毛利台は、現在は住宅地。 毛利庄の中でも南側で、「下毛利」がこのあたりとされる。 毛利台入口のバス停 近くには、南毛利と書いて「なんもうり」と読むスポーツセンターがある 南毛利から少し北へ行くと、下古沢という土地に、毛利氏発祥の地の石碑がある。 毛利季光屋敷跡と記されているが、現在はもう少し北の飯山だったとも推定されている。 毛利氏発祥の地の石碑 石碑から北上し、季光に匿われた隆寛を開基とする飯山の光福寺を訪ねてみる。 なお、隆寛は浄土宗の僧侶だが、現在の光福寺は浄土真宗となっている。 江戸時代の地誌である『新編武蔵国風土記稿』でも、飯山村の「弥陀堂」と「光福寺」の項に、隆寛と毛利季光のゆかりが記されている。 それによると、弥陀堂は隆寛が住んだという由来から隆寛堂とも呼ばれていたこと、光福寺は開山が隆寛であることとその経緯などが記され、江戸時代にも飯山で隆寛の話が知られていたことがわかる。 現在、弥陀堂(隆寛堂)は廃寺となって跡も無い。 光福寺では、滅して800年もの時を経た隆寛が、今でも静かに眠っている。 『新編相模国風土記稿』の一部() 隆寛は貴族の生まれで、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)で出家した天台宗の僧侶だったが、やがて浄土宗の開祖となる法然による専修念仏の教えを信仰するようになる。 法然没後は、浄土宗の有力者として京で活動していた。 そんな隆寛が、なぜ関東へ来たのか? 現代では鎌倉新仏教と呼ばれる宗派の一つである浄土宗は、法然の存命中から、天台宗など古くからある宗派からの圧力があった。 法然死後の1227(嘉禄3)年、浄土宗で「嘉禄の法難(かろくのほうなん)」と呼ばれる弾圧が起こり、他宗からの働きかけを受けた朝廷の命で、隆寛は奥州(東北地方)へ流罪とされてしまう。 この護送を担当したのが、毛利季光だった。 京を発った後、鎌倉に着いた隆寛は、流罪の身ながら丁重に扱われたという。 実は、季光の父である大江広元は法然を信奉していた人で、季光も念仏の教えを信じる人だった。 さらに、当時は鎌倉幕府でもその教えに理解があったのだ。 しかし、隆寛の配流先は、鎌倉よりさらに遠く寒さも厳しい北の地。 この時80歳という老齢の隆寛を案じた季光は、隆寛を自分の住所である飯山に匿い、代わりに弟子の実成房(じつじょうぼう)が配流先へ行った。 『隆寛律師相模飯山にて往生の図』() 隆寛は京を発ってから約1ヶ月後、鎌倉を出て季光屋敷のある飯山へ移り、そこで庵を結んで住む。 が、残念ながら、その4ヶ月後に病で亡くなってしまう。 それにしても、罪人である隆寛の滞在を、京の朝廷はともかく、鎌倉幕府が知らなかったとは考えづらい。 あえて幕府がそれを見過ごしたとすれば、季光はそれほどまでに力を持つ人物だったということだろう。 さらにいえば、密かに匿うには、現地の人々も多くの協力をしたはずだ。 老齢で長旅を強いられた隆寛の身を案じる季光の信仰心や情が、この地の人々にも汲まれていたのかもしれない。 取材を終えて 毛利氏ゆかりの地は、神奈川県厚木市にかつてあった「毛利庄」。 毛利氏は、この地を本拠とする鎌倉時代の武士である季光が、毛利を名乗ったことが始まりとされている。 神奈川にいた毛利氏に関する史跡や遺物は現在ほとんど残っていないが、地名や寺に毛利氏発祥の毛利季光や、その名字の地となった毛利庄が存在した痕跡を見ることができた。 毛利庄は、毛利季光の父である大江広元の代から領地として関わりがあり、京から罪人として送られた高僧を匿ったという季光の人情味あるエピソードの地でもあった。 ちなみに、毛利季光の父である大江広元は、2022年の大河ドラマに決定した北条義時が主役のタイトル『鎌倉殿の13人』で、この13人の1人とも予想されている。 確実に舞台となるだろう鎌倉の他に、厚木の毛利庄が登場する可能性も? と期待したい。 -終わり- 取材協力 あつぎ郷土博物館 池谷山光福寺 参考資料 『厚木市史』中世資料編・中世通史編.

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2020年 毛利庭園へ行く前に!見どころをチェック

毛利 庭園 生誕 の 地

毛利氏庭園 防長二州元藩主の住まい 明治新政府は、当初藩主は東京在住を命じる。 やがて国許居住が許されると、毛利氏も旧領国に邸宅を設けることになる。 元藩士井上馨 当時内務大臣、毛利家政協議会筆頭 等によって、気候温暖・空気清澄な、標高225mの多々良山の南麓が適地として決定され、30万平方メートルといわれる山林・松並木路両側の地も買収して、広大な屋敷となった。 当主は元徳公 明治30年没 平成8年、毛利氏庭園は、国指定名勝となる。 指定地域の面積庭園8万4千平方メートル邸宅4千平方メートル余) 東京高輪邸 明治4 1871 年、毛利家は神田橋邸の替わりに、朝廷から芝の高輪邸を拝領する。 大正初年ごろから元道公 元昭の嗣子 が住まわれたが、終戦後住宅・事務所・書庫を残して、他は処分された。 現在は杉並区上萩に居を移され、邸跡は市街と化してその名残はない。 正月飾りをした東京・高輪邸の「本門」 明治時代高輪邸で開かれた園遊会 着工完成まで20年 この地は、梛・清水、森の下・堤の脇と呼ばれ、南に旧山陽道が通る景勝の地である。 明治25 1892 年敷地の買収を終わり着工に取りかかるが、日清・北清・日露と戦役が続いたので遠慮して工事を中止し、大正元 1912 年改めて工を起こし、同5年7月完成した。 総費用は当時の金で38万円、現在の貨幣価値では150億円ぐらいという。 当主は元昭公だった。 慶応元 1865 年、毛利藩主最後の嗣子として、萩八丁邸に生まれる。 防府を永住の地と定めて、明治3年から三田尻御茶屋に居を定めていた、多々良邸が完成するや此処に移り、毎年の天機の奉伺で上京する以外、此処を出ることはなかったと云う。 昭和9年、夫人を失った後も、ひとり多々良邸にあって風月を友とした。 昭和13 1938 年没する。 毛利元昭 表門 毛利邸前バス停で車を降り、両側の松並木の路をたどると表門につく。 城門を思わせる豪壮な総欅作りで、中央の大扉は主人と特別な人が通る時以外は開くことはなかった。 両袖には石垣の塀を設け、右の石垣はさらに延びて邸の南を区切り、外側に長池と呼ばれる壕がある。 松並木の路 表門 路傍庭園 表門から本邸に通じる広い路の右側に梛川 なぎ が流れてカエデの林、左は自然林を背景に数百本のツツジが配され、春は躑躅・秋の紅葉と閑雅・幽深の路が続く。 梛川の水は、ないだ清冽な水でお茶の水として賞され、茶人も愛用したと言う。 庭内には梛木が植えてあり、なぎの名はこれから生まれたのだろう。 右手の石橋を渡ってゆるやかに左に曲がると本邸車寄。 真直ぐに行くと梛原に出る。 明治41 1908 年此処に梛邸が建築された。 明治44 1911 年明治天皇を迎えるため藁葺きを全面改装され、同年、明治天皇が九州西下の節、11月9・16日、往復路ともに宿泊所にされた。 戦前は「明治天皇多々良行在所」として、国から史跡に指定されていた。 観覧禁止 梛邸 軒唐破風付車寄せをもつ、江戸期の御殿造の様式を取り入れた建築で、明治・大正の建築技術の粋を集めた殿堂である。 木曽御料林のヒノキ・屋久島の神代スギ・台湾のケヤキ等、無比の良材が使用されている。 邸宅建坪約4000平方メートル、部屋数60、畳数780枚 元昭公がなくなると嗣子元道公は東京の邸を整理した後、梛邸に住まわれ地元の催し等に出られたという。 本邸 玄関を入って右に折れると、二つの応接室がある、邸内唯一の洋風の部屋で、床には絨毯が敷かれ、椅子やテーブルが置いてある。 廊下や部屋の床板はケヤキ、仕切戸の板は神代スギである。 応接室 本邸南棟の一階は大広間と主人の間となっている。 大広間 客殿 は三部屋からなり、合わせて42畳。 天井は一段と高く格天井にし、最奥の18畳の間には大きな床が設けられ当主はここに座して客を迎えもてなした。 部屋の南側には畳敷きの広い廊下、さらに欄干付きの濡縁、中央に階段を設けて、庭を眺めたり出て散策したりすることができた。 正月の賀、祭の直会い等大勢の客を迎える間で、戦後一時、結婚式場として利用されたことがあった。 一階大広間 客殿 二階書院 段が檜の角材という贅沢な造りの階段を上がって二階に出る。 本邸唯一の二階の間で3部屋からなり、全部で32畳。 最奥12畳の間は主床と脇床に畳を敷き格天井張り、当主の座す間にふさわしい造りである。 南側の畳敷きの廊下からは、前景にひょうたん池の庭、遠く国府跡、さらに三田尻湾・江泊の山・向島などが眺望できる。 二階書院 主人の間 大広間の次に主人の間である。 控えの間 10畳 ・主人の間 10畳 ・主人の居間 12畳 ・主人の書斎 11畳 の4部屋からなる。 主人の間と控えの間は、主人が客と会う間。 主人の居間は2部屋からなり、宝の間ともいわれる。 大正5年大正天皇・大正11年貞明皇后・昭和12年昭和天皇・昭和31年昭和天皇・皇后両陛下が宿泊された間である。 此処から眺める南の庭は、本邸平庭最高の佳景。 主人の間 奥方の部屋 主人の書斎の前の廊下を左に折れると奥方の部屋がある。 4部屋からなり合すと27畳、一間は仏間である。 折上格天井を張り火頭窓を設けた立派な間である。 奥方の部屋 子供部屋 奥方の部屋の奥が子供部屋で、3部屋あった。 今は展示室になっている。 南側の広い庭は、子供たちの遊び場だっただろう。 北棟の部屋 客間・食堂 北棟手前の部屋 現事務室あたり は客間、その奥は食堂 座敷き だった。 食堂は、上の間は当主とその嗣子の間で、奥方といえどもここで食事をとられることはなかった。 炊事場は本館北の別棟にあった。 廊下を突き当たると左に湯殿がある。 ボイラー室は別の所にあった。 北棟の部屋 客間・食堂 左右の丘を利用して、ひょうたん型の池 8000平方メートル をつくり、北の小丘には山林的風致を加え、林丘の周囲を環状に水を流し、北からは飛瀑として、東からはせせらぎとして池に注ぐ。 池の周りの広庭には、石組・植栽・芝生・回遊路・石橋・四阿屋などを配して、重量感のある幽玄な遊歩地を構成している。 邸の内外には幾多の平庭が配置されているが、客殿・書院前の平庭は、平庭中最も豪華である。 庭内の樹木は松を主に250種もあると云われ、築庭時にはたくさんの老松があった。 築庭は東京仙花園出身の造園師佐久間金太郎で、その子孫が長く世話をしていた。 庭園 ひょうたん池南側から見た庭園と多々良山 中雀門から大王松の許を過ぎると平庭が広がる。 客殿前はゆったりとした広い庭、主人・奥方・子供部屋前は縁端に、下駄摺石を置き飛石を連ね、灯籠・手水石や樹木を配して、それぞれの間にふさわしい庭が造られている。 なかでも巨大な主石に老松を添える主人の間前の庭は圧巻である。 平庭 この庭は南側から眺める北の景色は美しい、前に博物館・左に本館・背景に多々良山がなだらかに横たわる。 広い庭は邸内の作業や催し、また子供たちの遊び場だったようだ。 広場の東に昭和22年、昭和天皇がお泊まりの折、植えられたという松が2本たっている。 子供部屋前広庭 庭園をめぐる遣水は広庭の南縁あたりで、東を流れる小川からひきいれられて二つにわかれる。 このあたりはクス・カシ・シイなどの常緑広葉樹にカエデやハゼが配されて、内苑とはやや異なる趣があり、春は新緑・秋は紅葉の美しい所。 野趣に富む庭 平庭南縁を流れる遣水を渡ると、ひょうたん池に突出する岬に出る。 径1mもあろう老松が聳え、四阿屋風の休憩所がある。 四顧すれば、北に本館・多々良山、南は眼下にひょうたん池、遠く防府の町と瀬戸の島山、東西は多々良山の緑の尾根が裾を引く。 あずまや 四阿屋 元は農業用溜池だった。 ホテイアオイが浮かび、鯉が泳いでいる。 平庭の南縁を流れた遣水はひょうたんの口部で飛瀑を作り池に注ぐ。 石の反橋はひょうたんの首部に架かる。 ひょうたん池を前景に、四阿屋・反橋・西の庭・本館・背景に多々良山を移した景はよく紹介されるが、やはりこの付近が本庭園の主景といえよう。 ひょうたん池 西池畔の石畳は舟遊び舟等の船泊りだった。 西池畔の庭は邸から舟着場に行く途中の庭で、丈の低いマツやツツジ等の灌木で構成している。 ニオイザクラといわれる桜があり、花を嗅ぐと白粉の香りがする。 この桜はここと宮中以外にはないといわれる。 藤棚の休憩所からは、芝生広場やひょうたん池土手のサクラがよく見える。 西池畔の庭 西方の小高い丘を開いた平坦地で、昔は乗馬の練習や園遊会などが行われた。 周囲はにはたくさんのサクラがあり、南堤の桜とともに市内有数の桜の名所として、春は花見で賑わう。 一隅に昭和31年来宿された昭和天皇・皇后御手播きの2本のマツがある。 芝生の広場 芝生の広場 子供部屋の前の広場の東、道を隔てて杉や檜に囲まれて二つの建物がある。 手前の祖霊社は毛利家の始祖天穂日命以下先代にいたる祖霊が祭られ、春秋二回例祭が行われる。 奥の絵画堂は毛利元就の木像を安置し、元就以下先代の肖像画が掲げてある。 二社の境内には梛邸の名の由来かと思われるナギの木がある。 ナギはイヌマキ科の常緑広葉の喬木で、葉は葉脈が縦にとおりベンケイノチカラシバともいわれる。 社寺の境内にままあるが、この辺りでは珍しい木。 祖霊社 絵画堂 毛利博物館 昭和41 1966 年、毛利家は、本邸・庭園及び重代の家宝類を一括して、財団法人「防府毛利報公会」に寄付する。 報公会は翌42年明治百年を記念し、本館の子供部屋を改造して「毛利博物館」を開館した。 所蔵している資料はすべて毛利家に伝来したもので、総点数2万点、国宝4件、重要文化財9件重要美術品17件、山口県指定文化財9件、総計8917点。 これらは平常展や年6回の特別展・企画展で、展示替えをして紹介している。 収納庫と展示室は昭和62 1987 年改築され、展示室は2室ある。 博物館 第1展示室 第2展示室 所蔵品 四季山水図 国宝 春 夏 秋 冬 雪舟の筆によるもで、雪舟芸術の最高傑作と言われている。 「山水長巻」の名で知られ、縦39. 7cm、全長は15. 92mにおよび、現在山水を主題とする画巻では最長といわれる。 古今和歌集巻八(国宝) 我が国最初の和歌集で、延喜5 905 年、紀貫之らの撰進したものである。 本書は、源兼行筆とするのが定説となっている。 巻八は現在完本として残る四巻の一つ。 史記呂后本紀第九(国宝 中国における正史の初めをなすもので、延久5 1073 年に大江家国が書写、点合、受訓をしたもの である。 菊造腰刀(国宝) 刀身は26. 5cm、鵜首造りで、反りはなく、表裏に薙刀樋を彫っている。 銘はないが、当麻の所伝がある。 日本国之印 重要文化財 印箱 印材はサクラ、印面は10,1cmの正方形で、高さは右側が4,1cm、左側3,5cmと不同である。 日本国王印は明から足利義満に贈られた。 原印は金印の筈で、原印が失われ代用として本印を作製し、日明勘合貿易に際して使用されたものと思われる。 毛利元就教訓状(重要文化財) 弘治3年11月25日、元就は長男隆元、次男吉川元春三男小早川隆景にあて、三兄弟が仲良く協力して毛利の家名を大切にし、長くその繁栄をはかるよう十四箇条に亘る長文の手紙を書き送った。 この手紙は有名な元就の「三矢の訓」のもとになったものと考えられている。 多々良山とゴルフ場 背後の多々良山は松が茂り邸の背景をなし、松茸がたくさん採れた。 昭和27 1952 年、山口カントリークラブがゴルフ場 18ホール を開設し、山容も変わった。

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