マイルス デイビス アルバム。 ネフェルティティ (アルバム)

マイルス・デイヴィスの歴代アルバムを米サイトStereogumがランク付け

マイルス デイビス アルバム

1987年 基本情報 出生名 Miles Dewey Davis III 生誕 出身地 死没 1991-09-28 (65歳没) ジャンル 、、、エレクトリック・ジャズ、クロスオーバー 職業 ・ミュージシャン、、編曲家 担当楽器 、、 活動期間 - レーベル (現) 公式サイト マイルス・デューイ・デイヴィス三世( Miles Dewey Davis III、 - )は、出身の奏者、作曲家、編曲家。 アルバム『ウォーキン』『』『』など多くの作品で知られている。 日本には彼を「モダン・ジャズの帝王」 と呼ぶジャズ・ファンやジャズ評論家もいる。 いわゆるジャズの巨人の 一人。 、、、エレクトリック・ジャズ、、ヒップホップ・ジャズなど、時代に応じて様々な音楽性を見せ、ジャズ界を牽引した。 1947年 中央 生まれ。 翌年にへ転居。 祖父はアーカンソー州に広い土地を持ち、父は歯科医 、母は音楽の教師という裕福な環境で育った。 13歳の誕生日に父親からトランペットをプレゼントされ、演奏を始める。 高校在学中の15歳のときにユニオン・カードを手に入れ、のクラブに出演するようになる。 当時のセントルイスにはの労働者の居住区が多く、ジャズライブが定期的に行われていた。 そのためマイルスは多数のジャズプレイヤーを見て学んでいた。 18歳の頃マイルスは、セントルイスにビリー・エクスタイン楽団が来たとき、病気で休んだ第3トラッペッターの代役を務め、、 との共演を果たした。 このときのことをマイルスは「バードとディズの演奏を聴いてても何が何だかさっぱりわからなかった」と語っている。 彼はその後直ぐにに出てに入学(後、中退)。 間もなくパーカーを探し当て、1年間同じ部屋で暮らしながら演奏を共にする。 1945年、の楽団に所属していたハービー・フィールズの録音に参加。 公式な初レコーディングである。 1947年には、パーカーやのサポートを得て、初のリーダー・セッションを行う。 パーカーの元でのからキャリアは始まったが、マイルスは新たな可能性を求め、1948年にのやらと出会う。 ギルの協力を得て、後のウェスト・コースト・ジャズの興盛に多大な影響を与えた『クールの誕生』を制作。 スイング時代に意欲的な活動を繰り広げたピアニスト兼バンドリーダーのの音楽から受けた影響を発展させたものだった。 その後もギルとは度々共同制作を行う。 1950年代 [ ] 1950年代に入ると、、、、、などと共演するが、麻薬の問題で一時演奏活動から遠ざかる。 しかしマイルスは立ち直り、1954年から発表した『ウォーキン』は高く評価され、のトップ・アーティストとしての地位を固める。 1954年12月24日にはアルバム『マイルス・ディヴィス アンド モダン・ジャズ・ジャイアンツ』でと共演する。 両者は音楽に対する考え方が相容れなかったとされ、この共演は俗に「喧嘩セッション」と呼ばれていた。 しかし実際の所、このセッションは演出上マイルスが吹くときにはモンクに演奏しないよう、マイルスが指示したというだけである。 1955年、、、、のメンバーで、第一期クインテットを結成。 同年、において、チャーリー・パーカー追悼のために結成されたオールスター・バンドに参加。 このときの演奏がきっかけとなりと契約。 1956年に移籍第一作『』発表。 その一方で、プレスティッジとの間に残された契約を済ませるために、アルバム4枚分のレコーディングをたった2日間で行った。 24曲、すべてワンテイクであったといわれる。 俗に「マラソン・セッション」と呼ばれるが、連続した2日間ではなく、2回のセッションの間には約5ヶ月のブランクがある。 これらの演奏は『ワーキン』『スティーミン』『リラクシン』『』の4枚のアルバムに収録され、プレスティッジはこの4枚を毎年1枚ずつ4年かけて発売した。 また、1957年にはパリに招かれ、ルイ・マル監督の映画『』の音楽を制作した。 映画のラッシュ・フィルムを見ながらで録音したというのが伝説になっている。 1958年には を加えて、バンドはセクステット(6人編成)になる。 同年にはキャノンボールの『』に参加。 また、が退団したため、にを迎える。 ビルはバンドにクラシック音楽(特に、)の要素を持ち込みマイルスに影響を与えたが、7ヶ月余りで脱退。 が代わって参加した。 1959年代表作の一つ『』を制作。 その際にはビルを特別に呼び戻した。 この作品でマイルスは、これまでのコード進行に頼る楽曲ではなくスケール(音列)を指標とした手法、いわゆるの方法論を示した。 この作品は革新的である以上に演奏の完成度が非常に高い。 1960年代 [ ] 1963年 1960年にジョン・コルトレーンがグループを脱退、他のメンバーも随時交替する。 ここからしばらくメンバーは固定されず(この時期、ソニー・ロリンズ、J・J・ジョンソンらと再び共演している)、作品的にも目立ったものは少なく、ライブレコーディングが中心となっていく。 1963年、、、がグループに参加。 サックスのコールマンがサム・リヴァースに変わって間もなくの1964年7月に初来日した。 同年秋にはを迎え、マイルス、ウェイン、ハービー、ロン、トニーという第二期クインテットが確立。 1968年前半までこのメンバーで活動した。 途中マイルスが健康状態の悪化で活動の休止を余儀なくされる時期もあり、録音された作品はあまり多くは無かったが『E. 』『マイルス・スマイルズ』『ソーサラー』『』など優れたスタジオ・アルバムと数枚のライブ・アルバムを発表した。 特に前述の4作品は60年代4部作と呼ばれ、50年代のマラソンセッション4部作と並んで人気が高い。 演奏面でも作曲面でもスタイルのジャズとしては最高水準まで昇りつめた5人は、「黄金クインテット」と呼ばれる。 マイルス自身もこのクインテットを「偉大なバンド」と評しており、4人から学んだことも多かったと語っている。 1968年、のリズムとエレクトリック楽器を導入した、『』を発表。 この年の後半には、リズム・セクションが、、に交替。 このメンバーによる録音は長らく公式には発表されなかったため、ファンの間では「幻のクインテット」「ロスト・クインテット」と呼ばれていたが、マイルスの死後1993年になってようやくライヴ盤『1969マイルス』が発表され、黄金クインテットに劣らない高水準の演奏がようやく日の目を見ることになった。 1969年、、の参加を得て、『』を制作。 さらに翌年にはLP2枚組の大作『』 を発表する。 3人のキーボード、ギター、ツイン・ドラムとパーカッション、という大編成バンドでの演奏で、重厚なリズムとサウンドは70年代のジャズの方向性を決定づけた。 この時期、マイルスはや、などのアルバムを好んで聴いていたと伝えられており、そのファンクやロックの要素を大胆にジャズに取り入れた形となった。 1970年代 [ ] 1971年 1970年代に入るとマイルスは色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと発展させ、ジャズ界でブームとなりつつあったクロスオーバーとは一線を画する、ハードな音楽を展開する。 マイルスのエレクトリック期とは、この時期を指すことが多い。 マイルスは、次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライヴを積極的に行ったが、公式発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売されることになる。 1972年公式に発表した『』は、ファンクを取り入れたことが話題となる問題作であった。 しかし、クロスオーバー・ブームで、かつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を出す一方で、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえなかった。 1973年と1975年に来日。 この頃から健康状態も悪化、1975年の大阪でのライヴ録音『アガルタ』『』を最後に、以降は長い休息期間となる。 1980年代 [ ] 1980年に活動再開。 ドラムの以外は(サックス)、、など、当時それほど有名ではなかったフュージョン系の若手がメンバーとなった。 1981年に復帰作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』制作。 10月には新宿西口広場(現在の東京都庁)で来日公演を行った。 この模様は、後日NHKテレビで放映され、ライヴ盤『ウィ・ウォント・マイルス』にはその一部が収録されている。 以降、1983年、1985年、1987年、1988年、1990年と度々来日した。 1980年代はフュージョン、ポップ・ジャズ色を強め、1981年の「マン・ウィズ・ザ・ホーン」はフュージョン色が濃かった。 85年に制作された『』ではの「」やの「」などを取り上げた。 1986年、長年在籍したコロンビアからへ移籍。 同年発表の『』は、マーカス・ミラーのプロデュース(1曲のみのプロデュース)で、バンドを従えずあらかじめ出来上がったトラックの上にトランペットをかぶせるポップス・ミュージシャンのような制作スタイルを取り入れた。 また、などにも接近し、いくつかのセッションや録音をした他、ペイズリーパークでのプリンスのライヴにゲスト出演している。 また、コーポレート・ロックのによるアルバム『』にも、ゲストとして参加。 以降も、やなど、ジャズ以外のジャンルの作品にも多くゲスト参加した。 1990年代 [ ] NYブロンクス区にあるマイルスの墓 1990年にはにて行われた追悼コンサートに出演し、の「」をカバーした。 さらにのミュージシャンであるをゲストに迎えた新アルバムの制作を開始した直後の1991年9月28日、の為、ので死去。 満65歳没。 そのため、このアルバムはイージー・モー・ビーにより大きく手を加えられ、『』(1991年)としてリリースされることとなる。 ヒップホップ・ジャズとも言える本作は、黒人ラジオでオンエアされるなどリスナーの評価はよかったが、未完成ということもあり評論家は批判的だった。 死後から15年経った2006年には入りを果たし、授賞式でのプレゼンターは、マイルスとグループを共にしていたが務めた。 音楽性 [ ] ポーランド・キェルツェにあるマイルスの像 マイルスのトランペット・プレイは、を(1940年代後半〜1950年前半に使用したミュートは「カップ・ミュート」が中心で、「ハーマン・ミュート」を頻繁に使用するのは1950年代中頃から)使用し 、自身の特性を考慮し、ヴィブラートをあまりかけず、跳躍の激しい演奏などといったテクニックにはあまり頼らない面が挙げられる。 また、のようなハイトーンを避け、中音域がトランペットにおいて最も美しい音が出る、として多用し、音から音へ移動する場合、を用いている。 後には、無駄な音を出さないという「空間性」にも繋がっていった。 楽曲上の主な特徴は、初期においては、テーマの後、それぞれが順にソロ演奏を行い、その間バックアップとして呼応したり煽る事はあっても、を同時に2つ以上ぶつけることはせず、その後、再びテーマに戻って終わるといった、ジャズでの典型的なスタイルである。 1960年代以降は、テーマに戻らずに終了する作品も見られる。 また、1970年代以降のステージでは、トランペットの他に電気オルガンやシンセサイザーといったキーボードを演奏する事もあった。 クラシックなどのアレンジも研究し、クール・ジャズや後の完全にアレンジされたジャズにおいて、その成果が発揮された。 特に、マイルスが導入したスタイルに・ジャズ Modal Jazz がある。 これらは、らが創出したに限界を感じ、コードが導入される以前の古いを積極的に採りいれたアルバム『』で、モード・ジャズの発端を開いた。 他にも、や、はたまたなども採り入れ、ジャズを超えた、様々なジャンルの音楽に注目していた。 1960年代後半は、マイルス自身ロックなど電気楽器を取り入れた音楽にも強い関心を持っていた。 ジェームス・ブラウン、スライ・ストーン、の音楽を評価し、ジミとは共同で録音する計画まであった。 ただ、ジミとの共演は非公式なセッションだけで終わった。 ビートルズに関しては、評価せず興味も示さなかった。 ただ、パーティーでジョン・レノンと出会い、バスケット・ボールをプレイしている映像は、動画サイトで確認可能である。 プリンス作曲の「ジェイルバイト」の音源は、未発表のままとなっている。 ただし、というかたちでプリンスと共演したもう一つの作品「キャン・アイ・プレイ・ウィズ・ユウ」は出回っている。 この曲は元々、アルバム『』に入る予定であったが、曲調が他の収録曲と合わないため外れた。 また、『』では、がナレーションでゲスト参加し、や(「タイム・アフター・タイム」)のカバーも収録している。 音楽的には柔軟で先進的な姿勢を貫いたマイルスも、は演奏せず、を批判した事もあった。 人物 [ ] 1982年当時の妻で女優のと マイルスは、アメリカにおける人種差別問題には常に批判的であった。 「白人によるアメリカ」を嫌悪しており「はアメリカを批判するのに3日掛かると言ったが、俺なら2週間で出来るよ」と喧伝していた。 マイルス自身も、人種差別の被害にあった経験があった。 また、「今生きている人間で最も大切な人を5人挙げてくれないか」とインタビューで聞かれ、「俺自身と弁護士のハロルド・ロベット、と妻のフランセス。 あとの一人は50歳をこえたアメリカン・ニグロなら誰でもいい。 みんな白人にひどい目に遭わされたのに我慢したからさ」と答えている。 しかし、音楽性の追求のためにはは関係ないというスタンスを貫き通した。 マイルスが一番の親友と称しているアレンジャー、には生涯に渡って強い影響を受けていた他、初期の名作『クールの誕生』にはやといった白人ミュージシャンを起用した。 リー・コニッツを雇った際、当時主なマイルス音楽のリスナーだったアフリカ系アメリカ人層からは批判されたが、マイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色でも雇う 」と発言したと伝えられている。 第一期クインテット時代に、一時的にをバンド・メンバーに迎え入れ、ビルは音楽的には貢献をしたものの、客による白人バッシングに耐えきれず、わずか1年程度で脱退した。 1960年代末のエレクトリック導入期には、やの存在抜きには考えられないほど彼らの才能を評価していたし、その後もや、など多くの白人メンバーが在席した。 唯一のアジア系人種として、ピアニストのがから2年間レギュラー・メンバーとして活躍した。 70年代後半の休養期にも、日本人ピアニストが未発表セッションに参加していた。 速い物を好み常になどのスポーツカーを乗り回していた。 また彼曰く最速のスポーツである事から、をたしなんでいた。 このスポーツカーへのこだわりは飛行機で移動すれば1時間のところを、クルマに乗る事に固執し、3時間かかってしまった事にも現れている。 1980年の復帰以降は、絵を描くことに没頭し、『』のジャケットは自分で描いている。 バンドメンバー及びレコーディングメンバーの変遷 [ ]• 第一期クインテット・シクステット(1955年-1958年)• (サックス)• 『カインド・オヴ・ブルー』時代(1958年-1963年)• ジョン・コルトレーン(サックス) (-1961年)• ポール・チェンバース(ベース)• キャノンボール・アダレイ(サックス)• (ピアノ) (-1959年)• (ドラム)• (ピアノ) (1958年-)• (サックス) (1960年)• (サックス) (1961年)• 第二期クインテット(1963年-1968年)• (サックス) (-1964年)• (ピアノ)• (ベース)• (ドラム)• (サックス) 1964年)• (サックス) (1964年-)• ロスト・クインテット(1968年-1970年)• ウェイン・ショーター(サックス)• (ベース)• (ドラム) (1969年-)• (ドラム) (1968年)• 『ビッチェズ・ブリュー』期(1970年)• ウェイン・ショーター(サックス) (-1970年春)• (サックス)• (サックス) (1970年夏-)• (ギター) (不定期)• チック・コリア(キーボード)• (キーボード)• (ウッドベース・エレクトリックベース)• ジャック・ディジョネット(ドラム)• (パーカッション)• (バスクラリネット)• (エレクトリックベース)• 『ライヴ・イーヴル』期(1970年-1971年)• ゲイリー・バーツ(サックス)• ジョン・マクラフリン(ギター) (不定期)• キース・ジャレット(キーボード)• (ベース)• ジャック・ディジョネット(ドラム) (-1970年前期)• (ドラム) (1970年後期-)• (パーカッション) (-1970年初期)• アイアート・モレイラ(パーカッション) (-1970年前期)• (パーカッション) (1970年後期-)• (パーカッション) (1970年後期-)• 『オン・ザ・コーナー』期(1972年-1973年)• (サックス)• (ギター)• (キーボード)• マイケル・ヘンダーソン(ベース)• (ドラム)• ジェームズ・エムトゥーメ(パーカッション)• 一時引退直前期(1973年-1976年)• (サックス)(-1974年)• (サックス)(1974年-1975年)• (サックス)(1975年-)• (ギター)• (ギター)• (キーボード)(-1973年初期)• マイケル・ヘンダーソン(ベース)• アル・フォスター(ドラム)• ジェームズ・エムトゥーメ(パーカッション)• カリル・バラクリシュナ(シタール) (-1973年初期)• バダル・ロイ(タブラ) (-1973年初期)• カムバック後 前期(1981年-1984年)• (サックス)(第1期のピアノとは別人)• (ギター)• (ベース)• アル・フォスター(ドラム)• (パーカッション)• カムバック後 中期(1984年-1986年)• (サックス)• (ギター)• (キーボード)• (ベース)• (ベース)• (ドラム)• (パーカッション)• (ギター)• (ギター)• カムバック後 後期(1987年-1991年)• (サックス)• (ギター)• (キーボード)• (キーボード)• (キーボード)• (ベース)• (ドラム)• (パーカッション)• (パーカッション)• (パーカッション)• ラスト・バンド(1991年)• ケニー・ギャレット(サックス)• ジョセフ・フォーリー・マクレアリー(ギター)• (キーボード)• (ベース)• リッキー・ウェルマン(ドラム) ディスコグラフィ [ ] Capitol [ ]• 『クールの誕生』 - Birth of the Cool(1949年-1950年録音。 12インチ 30cm LPとしての発売は頃) Blue note [ ]• 10インチ 25cm LPオリジナル・アルバム• 『』 - Young Man With a Horn 1952年• 『』 - Miles Davis Vol. 2 1953年• 『』 - Miles Davis Vol. 3 1954年• 12インチ 30cm LP編集盤(上記の10インチのアルバムを、別テイクを入れて再構成し、2枚にしたもの)• 『』 - Miles Davis Vol. 1 1952年-1954年• 『』 - Miles Davis Vol. 2 1952年-1954年 Prestige [ ]• 『ディグ』 - Dig 1951年• 『ブルー・ヘイズ』 - Blue Haze 1954年• 『ウォーキン』 - Walkin' 1954年• 『バグス・グルーブ』 - Bags Groove 1954年• 『マイルス・デイヴィス・アンド・ザ・モダン・ジャズ・ジャイアンツ』 - Miles Davis and the Modern Jazz Giants 1954年• 『マイルス〜ザ・ニュー・マイルス・デイヴィス・クインテット』 - Miles 1955年• 『ザ・ミュージングス・オブ・マイルス』 - The Musings of Miles 1955年• 『ブルー・ムーズ』 - Blue Moods 1955年• 『』 - Cookin' 1956年• 『リラクシン』 - Relaxin' 1956年• 『スティーミン』 - Steamin' 1956年• 『ワーキン』 - Workin' 1956年• 『マイルス・デイビス・アンド・ホーンズ』 - Miles Davis and Horns 1951年-1953年• 『コレクターズアイテム』 - Collector's Item 1953年-1955年 CBS [ ]• 『』 - Round About Midnight 1955年-1956年• 『マイルス・アヘッド』 - Miles Ahead 1957年• 『マイルストーンズ』 - Milestones 1958年• 『』 - 1958Miles(日本編集盤) 1958年• 『マイルス・デイヴィス・アット・ニューポート』 - Miles Davis at Newport 1958年• 『ジャズ・アット・ザ・プラザ』 - Jazz at the Plaza Vol. 1 1958年• 『』 - Kind of Blue 1959年• 『』 - Sketches of Spain 1959年• 『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』 - Someday My Prince Will Come 1961年• 『ブラックホークのマイルス・デイビス』 - At the Blackhawk 1961年• 『マイルス・デイヴィス・アット・カーネギーホール』 - Miles Davis at Carnegie Hall 1962年• 『クワイエット・ナイト』 - Quiet Nights 1963年• 『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』 - Seven Steps to Heaven 1963年• 『マイルス・デイヴィス・イン・ヨーロッパ』 - Miles Davis in Europe 1963年• 『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』 - My Funny Valentine 1964年• 『マイルス・イン・トーキョー』 - Miles in Tokyo 1964年• 『マイルス・イン・ベルリン』 - Miles in Berlin 1964年• 』 - E. 1965年• 『ライヴ・アット・ザ・プラグド・ニッケル』 - Live at the Plugged Nickel 1965年• 『マイルス・スマイルズ』 Miles Smiles 1966年• 『ソーサラー』 - Sorcerer 1967年• 『』 - Nefertiti 1967年• 『』 - Miles in the Sky 1968年• 『キリマンジャロの娘』 - Filles De Kilimanjaro 1968年• 『』 - In a Silent Way 1969年• 『1969マイルス』 - 1969Miles 1969年 (1993年発売)• 『』 - Bitches Brew 1969年• 『ライヴ・アット・ザ・フィルモア・イースト』 - Live at the Fillmore East : It's About That Time 1970年 (2001年発売)• 『ブラック・ビューティ』 - Black Beauty(日本編集盤) 1970年• 『マイルス・アット・フィルモア』 - Miles Davis at Fillmore 1970年• 『』 - On the Corner 1972年• 『イン・コンサート』 - Miles Davis in Concert 1972年• 『ゲット・アップ・ウィズ・イット』 - Get Up With It 1970年-1974年• 『ダーク・メイガス』 - Dark Magus 1974年• 『』 - Agharta 1975年• 『』 - Pangaea 1975年 カムバック後• 『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』 - The Man With the Horn 1981年• 『ウィ・ウォント・マイルス』 - We Want Miles 1981年• 『』 - Star People 1983年• 『』 - Decoy 1984年• 『』 - You're Under Arrest 1985年• 『オーラ』 - Aura 1985年 Warner Bros. [ ]• 『』 - TUTU 1986年• 『アマンドラ』 - Amandra 1988年-1989年• 『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』 - Live Around the World 1987年-1991年 (1996年発売)• 『ドゥー・バップ』 - Doo-Bop 1991年 映画音楽 [ ]• 『』 - Ascenseur Pour L'Echafaud Lift to the Scaffold 1958年• 『ジャック・ジョンソン』 - A Tribute to Jack Johnson 1970年• 『』 - Music From Siesta 1987年• 『ディンゴ』 - Dingo 1990年• 『コラテラル』 - Collateral 2004年 編集盤 [ ]• 『サークル・イン・ザ・ラウンド』 - Circle in the Round 1955年-1970年 (1979年発売)• 『ディレクションズ』 - Directions 1960年-1970年 (1980年発売)• 『ウォーター・ベイビーズ』 - Water Babies 1967年-1968年 (1976年発売)• 『』 - Big Fun 1969年-1972年 (1974年発売) ボックスセット [ ]• 『マイルス・デイヴィス 1955-1985』 - The Columbia Years 1955-1985 1955年-1985年 (1988年発売)• 『コンプリート・ブラックホーク』 - In Person Friday and Saturday Nights at the Blackhawk, Complete 1961年 (2003年発売)• 『セブン・ステップス:ザ・コンプリート・マイルス・デイビス 1963-1964』 - Seven Steps: The Complete Columbia Recordings 1963-1964 1963年-1964年 (2004年発売)• 『コンプリート・ライヴ・アット・プラグド・ニッケル1965』 - The Complete Live at the Plugged Nickel 1965(1995年発売)• 『ザ・コンプリート・マイルス・デイヴィス・クインテット 1965-1968』 - The Complete Columbia Studio Recordings 1965-1968 1965年-1968年 (1998年発売)• 『ザ・コンプリート・イン・ア・サイレント・ウェイ・セッションズ』 - The Complete in a Silent Way Sessions 1968年-1969年 (2001年発売)• 『ザ・コンプリート・ビッチェズ・ブリュー・セッションズ』 - The Complete Bitches Brew Sessions 1969年-1970年 (1998年発売)• 『ザ・コンプリート・ジャック・ジョンソン・セッションズ』 - The Complete Jack Johnson Sessions 1970年 (2003年発売)• 『ザ・セラー・ドア・セッションズ1970』 - The Cellar Door Sessions 1970 1970年 (2005年発売)• 『』 - The Complete on the Corner Sessions 1972年-1975年 (2007年発売)• 『ザ・コンプリート・マイルス・デイヴィス・アット・モントルー1973-1991』 - The Complete Miles Davis at Montreux 1973-1991 1973年-1991年 (2002年発売) 受賞歴 [ ] に通算8回受賞、32回ノミネートされている。 またアルバム11枚がグラミー殿堂賞を受賞、本人には特別功労賞生涯業績賞が授与されている。 その他 1998年 、 2006年 などに名を刻んでいる。 ジャズ部門 グラミー賞 [ ]• 最優秀オリジナル・ジャズ作曲賞 -• 1960年 『スケッチ・オブ・スペイン 』- Sketches of Spain• 最優秀大規模ジャズ・アンサンブル・アルバム賞 -• 1970年 『ビッチェズ・ブリュー』- Bitches Brew• 1989年 『オーラ』- Aura• 最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・ソロ賞 -• 1982年 『ウィ・ウォント・マイルス』- We Want Miles• 1986年 『TUTU』- TUTU• 1992年 『ドゥー・バップ』- Doo-Bop 特別賞 グラミー賞 [ ]• グラミー殿堂賞 -• 1982年 『クールの誕生』- Birth of the Cool• 1992年 『カインド・オブ・ブルー』- Kind of Blue• 1994年 『マイルス・アヘッド』- Miles Ahead• 1999年 『ビッチェズ・ブリュー』- Bitches Brew• 1997年 『スケッチ・オブ・スペイン』- Sketches of Spain• 2000年 『ポーギー・アンド・ベス』- Porgy And Bess• 2001年 『イン・ア・サイレント・ウェイ』 - In a Silent Way• 2004年 『マイルストーンズ』- Milestones• 2014年 『リラクシン』- Relaxin'• 2016年 『マイルス・スマイルズ』- Miles Smiles• 2019年 『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』- Round About Midnight• 特別功労賞生涯業績賞 -• 1990年 受賞 レオニー・ソニング音楽賞 [ ] によって、音楽的に著しい成果を上げた人物に対して贈られる賞である。 主にクラシック奏者が受賞するため、マイルスの受賞は異例であった。 1984年 受賞 オーストラリア映画テレビ芸術アカデミー賞 [ ]• 作曲賞• 1991年 『ディンゴ』- Dingo 映画 [ ]• 『』 -。 ストリート・ミュージシャン役で。 『ディンゴ』 -。 ビリー・クロス役で出演。 『MILES AHEAD』 -2016年。 1970年代後半のマイルス・デイヴィスを描いた作品。 テレビ [ ]• 『巨匠たちの青の時代 Miles Davis 帝王への扉を開けたサウンド』 (NHK BSプレミアム)2011年12月22日 関連文献 [ ]• マイルス・デイヴィス、クインシー・トループ 『マイルス・デイビス自叙伝』1・2(訳、、1999年12月)• マイルス・デイヴィス、クインシー・トループ 『マイルス・デイビス自叙伝』(中山康樹訳、、2015年3月30日)• 中山康樹 『マイルスを聴け! Version8』(、2008年)• 中山康樹『新マイルスを聴け!アコースティック1945-1967』双葉社〈双葉文庫〉、2011年。 フランク・アルカイヤー『マイルス・デイヴィス・リーダー 誌に残された全記録』 (上西園誠訳、・エンタテイメント 2009年3月)• ジョン・スウェッド『マイルス・デイヴィスの生涯』(丸山京子訳、シンコーミュージック・エンタテイメント 2004年10月)• 小川隆夫 『マイルス・デイヴィスの真実』(、2002年10月)• 小川隆夫 『マイルス・デイヴィスコンプリート・ディスク・ガイド』(東京キララ社、2002年12月)• 『マイルス・デイヴィスとは誰か 「ジャズの帝王」を巡る21人』 小川隆夫・共著、、2007年9月• 中山康樹 『マイルス・デイヴィス ジャズを超えて』、2000年2月• 中山康樹『マイルス・デイヴィス 奇跡のラスト・イヤーズ』小学館〈小学館101新書〉、2010年。 ポール・メイハー、マイケル・ドーア『マイルス・オン・マイルス マイルス・デイヴィス インタヴュー選集』宝島社、2011年。 アシュリー・カーン『マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」創作術 モード・ジャズの原点を探る』(川嶋文丸訳、、2014年)• 『定本マイルス・デイヴィス』ジャズ批評編集部編、〈ジャズ批評ブックス〉、1999年。 『JAZZトランペット』ジャズ批評編集部編、松坂〈ジャズ批評ブックス〉、2001年、80-81頁。 『決定版ブルーノート・ブック 〜史上最強のジャズ・レーベルのすべて〜』ジャズ批評編集部編、松坂〈ジャズ批評ブックス〉、1999年、65,69,77,99。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• マイルス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマンらは、しばしば「ジャズの巨人」として名前をあげられる• 当時のジャズやブルースの黒人音楽家で、中流家庭の出身者は非常に珍しかった• バードとディズはビバップの創始者である• ソウル・ジャズの代表的ジャズマンで「マーシーマーシーマーシー」が有名• エレクトリック・ジャズ、ジャズ・ロックの代表アルバム 出典 [ ]• NHKアーカイブス(番組)• EMI Music Japan• シネマトゥデイ 2011年11月11日• com 映画ニュース 2011年11月11日• Gavin, James. , Suzuki, Reiko. , 鈴木, 玲子, 翻訳家. 2006. 死刑台のエレベーター• シネマトゥデイ• Miles Davis Biography• 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 (英語)•

次の

ジャズトランぺット帝王マイルスデイビス!おすすめ名曲は?

マイルス デイビス アルバム

こんにちはつよ吉です。 僕はjazzが好きで家でよく聴いています。 今日はjazzの中でも僕が特に好きなのおすすめアルバムを6枚選んで紹介したいと思います。 個人的な好みもあると思うけど、聴きやすくて何度聞いても飽きないアルバムを選んでいるので、マイルスを初めて聞く人でどれから聴いたら良いのかわからない人には参考になると思います。 jazzのリズムはロックの8ビートと違い、4ビートです。 この半分のリズムがゆったりとした、リラックスた気持ちにさせてくれるのだと思います。 夜になどのお酒を聴くのも良いですね。 好きなjazzアルバムを聴きながら好きなを飲む。 jazzにはセンチメンタルな曲がいくつもあります。 詩的で情景が浮かぶようなメロディーを聴いていると良いアが浮かぶことがあります。 jazz音楽に必要不可欠な要素は「ブルー・ノート」と呼ばれる音階で、「ドレミファソラシ」の「ミ」と「ソ」を半音下げたものです。 この音階によって、明るいような暗いような旋律が作り出されています。 それでは僕のおすすめするマイルスのアルバムを6枚紹介していきたいと思います。 1「kind of Blue」 マ・セッションの第2作目。 タイトル通り、全体的にリラックスした雰囲気が漂っています。 マイルスはドラッグや酒に溺れていた時期もあったようですが(jazzミュージシャンの大半がジャンキーで飲んだくれです。 笑)彼の生きざま、音楽スタイル、哲学、知性、全て尊敬に値します。 ここでマイルスの僕が好きな名言を紹介したいと思います。 同じところになんかずっといたくない。 クリエイティブなことができないなら、 死んだ方がましだ。 生きている意味がないじゃないか。 ーー 試練はいつだって オレを10倍強力にするからな。 チャレンジするのは大好きだ。 ーー 必要なのは才能じゃない。 練習、練習、練習、それだけだ。 ーー オレは現状に甘んじる人間は好きじゃない。 常に前進し、 変化を求める人間が好きだ。 ーー 毎日一歩ずつ前進するように、 頑張り続けるだけだ。 そうだ一歩ずつだ。 ーー マイルスのような天才でも音楽的成功をおさめたにもかかわらず、現状に満足せず、人並み外れた努力と才能で死ぬまで現役で音楽を創り続けていたことには脱帽です。 僕がマイルスが好きな理由はマイルスの思想や哲学が音楽に表現されているのを直接感じ取ることが出来るからです。 自分もマイルスを見習って努力し続けていこうと思わせる名言です。 5「ワーキン」 マ・セッションの第3作目。 このアルバムはこれまでの4枚のアルバムのジャケットデザインに比べるとイマイチな部分もありますが、アルバムの中身は他のアルバムと比べても劣らない内容となっています。 このアルバムで一番好きな曲は「it never entered my mind」です。 この曲はバラードとなっていますが、とても美しく、精神的に落ち込んでいる時に聴いた時は目頭が熱くなったことを覚えています。 まるでマイルスが僕にトランペットで「落ち込んでいたってしょうがないぜ。 お前はお前らしく生きていけばいいんだ。 」と語りかけてくれているかのように感じました。 マイルスの聴衆に対する深い愛情を感じさせる1枚です。 6(スミン).

次の

マイルス・デイヴィス

マイルス デイビス アルバム

MENU• 史上もっとも有名なジャズ・トランペッターのひとりとして知られるマイルス・デイビス。 ジャズの歴史上、彼はどんな偉業を成し遂げたのか。 そして、マイルス・デイビスとはどんな人だったのか。 生い立ちとキャリア 裕福な家庭に生まれて マイルス・デイビスは1926年、アメリカ合衆国イリノイ州生まれ。 歯科医の父親と 音楽教師の母親のもと、当時のアフリカ系アメリカ人としては裕福な家庭で少年時代を過ごします。 小学生でトランペットの演奏を開始した彼は、すぐに才能を開花させます。 最初のチャンスが到来したのは18歳のとき(1944年)でした。 当時の人気バンド「ビリー・エクスタイン楽団」がマイルスの地元を訪れた際、トランペット奏者の一人が病気で休場。 その代役として急遽、マイルスが参加することになったのです。 この楽団で彼は、当時のスーパースターとして知られていたアルト・サックス奏者、 チャーリー・パーカーやトランペット奏者の ディジー・ガレスピーらと初めて共演。 マイルスはその感動が忘れられず、彼らを追ってニューヨークへ移り住みます。 左よりトミー・ポッター(b)、チャーリー・パーカー(as)、マイルス・デイビス(tp)、デューク・ジョーダン(p)。 パーカーの影に隠れているが、ドラムはマックス・ローチ。 1947年、ニューヨークのライブハウス「スリー・デューセズ」にて。 ニューヨークに進出したマイルスは、憧れていた チャーリー・パーカーのバンドに加入(1945年)。 徐々に頭角をあらわすと、メジャー・レーベル(コロムビア)と契約を交わし、あふれるアイディアを実現するために多くのバンドを結成。 ライブやレコーディングを精力的におこないました。 バンドメンバーの変遷 第一期クインテット 1955年、マイルスは当時の名プレイヤーたちを誘って 自身のバンドを結成します。 5人編成のこのグループは、のちに「 第一期クインテット」 (注1)と呼ばれ、マイルスの初期のキャリアを語る上で重要なアルバム『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』(1956年)などを残しています。 この「第一期クインテット」を結成した3年後、彼はアルトサックスの キャノンボール・アダレイをメンバーに迎えて、 セクステット(6人編成)に変更。 自分よりも若いプレイヤーの情熱やアイディア、柔軟性に着目し、積極的に若手を採用しながら、新しいジャズのスタイルを模索し続けます。 第二期クインテット なかでも有名なのが、1964年に結成されたグループ。 「 第二期クインテット」と呼ばれる このバンドには、高い潜在能力を持った若手プレイヤーたち(注2)を起用。 のちに彼らは ジャズ界で大きな影響力を持つミュージシャンに成長します。 注2:ウェイン・ショーター(ts)、ハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds) そうした若手の能力を見抜き、伸ばす力は、のちのマイルス作品でも続きます。 1960年代後半から70年代前半にかけては、ピアニストの チック・コリアや キース・ジャレットらを起用(注3)。 80年代に入ると、ベーシストの マーカス・ミラーや、ギタリストの マイク・スターンらが抜擢され、メンバーそれぞれ、やがて名のあるミュージシャンとして活躍していきます。 注3:ほか、ジョン・マクラフリン(g)、ジョー・ザビヌル(kb)、デイヴ・ホランド(b)、ジャック・ディジョネット(ds)、アイアート・モレイラ(perc)なども、自身のバンドメンバーに抜擢。 変容を続ける演奏スタイル ジャズ、と一口に言ってもさまざまなスタイルがあります。 1940〜50年代にかけて流行した「 ビバップ」というスタイルは、要約すると「指定されたコード(和音)進行に沿って、独自のメロディを演奏する」というルールの音楽でした。 そしてミュージシャンたちは、そのルールの中でできるだけ速く、多くの音符を演奏することで自らの音楽を表現していました。 しかしゆったりと美しいメロディを表現したいマイルスにとって、ビバップは適したスタイルではありませんでした。 自分に適したスタイルを模索するマイルスは、ビバップの命とも言えるコード進行を捨てることを決意。 スケールと呼ばれる一定の音階(例えばドレミファソラシド)を使って自由にメロディ・ラインを奏でる「 モード・ジャズ」というスタイルを生み出しました。 モードから生まれた最大のヒット作 モードという手法で制作され、大ヒットを記録した『カインド・オブ・ブルー』。 このモード・ジャズのスタイルで作られた最初のアルバムは『 カインド・オブ・ブルー』と名づけられ、1959年に発売。 これまでに累計で1000万枚以上を売り上げる、ジャズ界最大のヒット作となりました。 またこの作品は「モード・ジャズの完成形」とまで言われ、この作品を境に多くのミュージシャンがモード・ジャズを演奏するようになったのです。 その影響から、自分のバンドにもエレクトリック・ギター/ピアノ/ベースを取り入れるようになります。 自身のトランペットにもワウ・ペダル(音色を加工する装置)を取り付けるなどして、ロックバンドさながらの音楽を作るようになりました。 さらに、ファンク色を濃厚に取り入れた『 オン・ザ・コーナー』を1972年に発表します。 ジャズ界のトップランナーとして、ビバップ〜モードへとシーンを導いてきたマイルスが、いきなりロックだ、ファンクだと言い始めたので、世のジャズ・ファン、そしてジャズ・ミュージシャンまでが「これはジャズだ!」「ジャズじゃない!」と喧々囂々、意見を二分して論争が巻き起こりました。 1980年以降になると、マイルスはポップスに急接近していきます。 ポップ・ミュージック界で人気を博す マイケル・ジャクソンや シンディ・ローパーの楽曲を取りあげ、 プリンスと交流を持つなど、ジャズを超えたポップスターになるべく奮闘。 最晩年となる1991年には、当時世に広まりつつあったヒップホップの要素を取り入れ『 ドゥー・バップ』を発表。 同年の9月、マイルスは65歳で亡くなり、この作品が彼の遺作となりました。 マイルスと日本 マイルスは1964年の第二期クインテットの頃に(一部メンバーは異なるものの)初来日し、そのライブの様子は『マイルス・イン・トーキョー』というライブ・アルバムとなって残されています。 初めて訪れた極東の地にもかかわらず、どの会場も満員で、毎回熱烈に歓迎してくれる日本のジャズ・ファンにとても驚いたということです。 その中でも1975年に大阪でおこなわれたライブは、昼公演の『アガルタ』、夜公演の『パンゲア』という2対のライブ・アルバムとして残され、当時の熱狂を今に伝えています。  ライブ以外でのマイルスと日本の関わりで忘れてはならないのが、晩年のマイルスに対するタモリによるインタビューでしょう。 これは当時(1985年)放送されていた「今夜は最高」というテレビ番組の中での一企画。 自らもジャズ・トランぺッターで、マイルスに憧れていたというタモリは始終緊張しています。 それでもマイルスへのプレゼントに食品サンプルを渡すあたり、さすがは日本を代表するコメディアンというところ。 一方マイルスは、インタビュー中に絵を描いてタモリにプレゼントしています。 現代に息づくDNA マイルスのバンドで育った若手ミュージシャンたちは、リーダーの強烈な音楽性に刺激を受け、バンドを卒業すると次々に自分のリーダー・バンドを立ち上げ、ヒットを飛ばすようになります。 マイルスの死後も、彼の残した音楽的要素は、モード・ジャズ、エレクトリック、ロック、ファンクなどそれぞれがジャズのひとつのジャンルとして細分化されながら現代に引き継がれています。 特にマイルスが最後に残した「ヒップホップとの融合」という要素は、ロバート・グラスパー p を中心とする若いミュージシャンが受け継ぎ、マイルスとは異なる手法で現在に花開かせています。 マイルスのDNAを現在に引き継ぐミュージシャンのひとり、ロバート・グラスパー(p)。 2015年には、マイルスを題材にした映画『マイルス・アヘッド』の音楽監督も務めた。 劇中でもマイルスの楽曲が全編で使用され、グラスパー自身も演奏者として出演。 ここまででわかるように、マイルスは現状に留まることなく常に変化を続けてきました。 ビバップと呼ばれるジャズの標準的な演奏方法を脱し、より自由にアドリブを取ることのできる「モード・ジャズ」を完成させた功績は、ジャズのみならず周辺の音楽へも大きなインパクトを与えました。 音楽のルールを打ち破る型破りな活動を貫き、生前・死後を問わず各方面に大きな影響を及ぼしていたことから、マイルスは今もなお「ジャズの帝王」と呼ばれているのです。

次の